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45.新田潤と青春の仲間たち ─ 高見順の恋愛とともに ─ |
さて、一冊でも読んで気に入ると、その作家の他の作品も読んでみたくなるのが大方の人情である。それで、その後、新田潤の本をぽつぽつと蒐め出した。 ここで例によって、前述の本や大事典などから、新田の略歴を紹介しておこう。1904年(明治37年)長野県上田市に生れ、浦和高校から東大英文科に入学。昭和8年東大を卒業するも、就職難の時代で、浅草に住み四、五年ぶらぶら生活し、武田麟太郎らと親しくつきあう。昭和8年9月、『日歴』創刊に参加、昭和13年、武田主宰の『人民文庫』にも『日歴』同人とともに執筆グループとして参加する。その後、飯田橋にある知識階級失業救済所に登録し、臨時雇いで築地の京橋図書館に一時勤める。この頃、田宮虎彦も近くの銀座で国際映画協会の職員をしていたので、親しく交流した。田宮は新田を作家としても人柄の上でも高く買って兄事しており、前述の『煙管』の出版はその友情の賜物だろう。昭和18年、海軍報道班員の一人として南方へ赴く。 戦前の純文学作品集は目録でもめったに見かけないし、出ていてもいずれも万円台の値が付いていて、とても手に入れられない。私が持っているのは、今のところ、戦後早くに出た安い値段で買える『未完の主人公』(昭22、共和出版社)、『妻の行方』(昭22、隅田書房)『夜の橋の上』(昭23、和敬書店)くらいである。このうち、神田、みはる書房の目録で入手した最後の本は京都の出版社から出たもので一寸珍しいかもしれない。なお、これも評判がよかったという初期の作品「片意地な街」は、『現代日本小説体系56』(昭27、河出書房)に収録されているのを読むことができた。同書の伊藤整の解説に「郷里の色々な人物から得たイメージにより人間の様々な性格や生活を描き分けた佳作」とある。これは同名の短篇集が戦後、昭和22年に新紀元社からも出ている。それにしても、これだけのわずかな材料で、新田潤のことを原稿に書くとは、いやはや厚かましい限りです。 |
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「未完の主人公」表紙 |
それはともかく、戦後もこの頃の作品集はおおむね純文学的なもので、大体、新田が体験したことを自伝的に描いているようだ。 |
標題の作品は、氏が京橋図書館にのんびり勤めていた頃、閲覧票に図案家と記入し、時々外国の図案集を見に来ていた黒ずくめの、おしゃれな一風変った男がいたが、その頃オーバーが頻々と盗難される事件が起こり、同僚が捕まえてみると、その人物だった。しかし、なかなか白状しなかったという。戦後、飲みに出かけた国民酒場で、やはりおしゃれな服装をしたその男を偶然目撃するが、そこで、警察に引っぱられた闇の売買人のために、抗議の演説をしていた。氏はその人物を主人公にして想像力を働かせ小説を書きかけたが、ついに未完に終ってしまった、という話である。 |
『夜の橋の上』は戦前に発表された短篇をまとめたもので、喫茶店をやっていた妻となる女性との恋愛や彼女の実家の養父母との結婚までの確執を描いた作品や「妹」「姉の死」「妻の叔父」など、身近な人々をめぐっての、おそらく自伝的な連作集である。主人公の心理の微妙な綾が巧みに詳細に描かれているという印象を受けた。 |
「夜の橋の上」表紙 |
「妻の行方」表紙 |
『妻の行方』は戦後一年目に書かれた書下ろし小説だが、長篇のせいもあって(言い訳ですが)実はまだ読んでいない。それでも、パラパラと眺めたところでは、戦争末期に新田が報道班員として帰国後、しばらく鹿児島の基地にいた留守中に起こった東京大空襲の混乱のさ中に、妻が行方不明となり、それがどうも他の男のもとへ走ったらしく、疑い苦悶し、妻を探し回る、という事件の顛末を詳しく描いたもののようだ。(最後は妻が戻ってくるという予感で終っている。) |
「あとがき」で、これは自分としては古傷を突つかれるような、早く忘れ切りたい出来事で、書きたくない素材だったが、ある晩、ふと思い立って書き始めたら、夢中で一ヵ月足らずで270枚も書き上げてしまい、せいせいした気分になるとともに「私自身まるきり思いもかけず陽気な愛妻家に変化している自分を見出した。」と書いている。おそらく、執筆しつつ、自分や妻を距離を置いて冷静に見つめることによってカタルシスが起こり、妻を見る眼もガラッと変容したのであろう。 |
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