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古書往来
44.鴨居羊子の絵とエッセイに魅せられて
─ 画家、鴨居玲とともに

彼女は新聞記者をやめ、下着デザイナーへの道を歩み出すのだが、その頃の彼女の下着観を簡潔に表現した名言を引いておこう。「いわば下着は、私にとって自分の心理を表現するタブローである。そして社会を見るフィルターでもある。私の心はまるで砂漠の哲学者のように下着をモチーフにしてしずかに沈潜していった。」と。
友人のアキ子のアパートの部屋を作業場にして彼女は仕事を始めるが、その革新的な下着観を世に問うため、まず個展を開くことにした。
その初めての会場は大阪そごうの中二階ギャラリーの曲り角の一隅、九坪の空間で、彼女の意向を受けてそごう宣伝部の人が知恵を絞り、会場としてひねり出してくれたものだった。なかなかユニークな空間の利用である。この会場構成を、おそらく記者時代に知己になった(あるいは飲み友達か?)早川良雄氏に頼んだ。彼女は「これは早川氏の傑作の一つだと私は今でも確信している。」と書いている。
周知のように早川氏(1917〜)は関西グラフィックデザイン界の大御所で、近年では大阪人には例えば、明るい柔らかいタッチで描かれたパステル画の女性像を全面に用いた、京阪百貨店のポスターでよく知られていよう。その空間は、といえば、真暗な壁面に囲まれ、赤、黄、青のスポットが照り、天井の黒い角材からいろんな下着がぶら下げられて空中に浮いている、といったものだった。何も知らずに会場をのぞいた観客はさぞ度肝を抜かれたことだろう。

個展会場(「下着ぶんか論」より)
個展会場(「下着ぶんか論」より)

この個展への案内状は美しい赤色で300枚作られ、宣伝文なども印刷された。(もし古本屋に出たら、ぜひ入手したいものだ!ムリだろうが。)毎日新聞に出た個展の案内広告には、エリック・ギル『衣裳論』(創元社!)の一節が引用されている。この本はとっくに絶版だが、定評ある衣裳哲学の古典で、たしか大部以前、大岡信氏もエッセイの中でその再評価を促しておられた。私が創元社に入社した頃、すでに稀少在庫の本で、編集部の本棚でしか見かけなかったのを憶えている。ともあれ、個展の広告にこの本から引用するとは、彼女はやはり並の下着デザイナーではない! 面白い空間利用という点では、1975年5月に第一回の下着ショーを開いた、大阪南の映画館スバル座の映画の幕間二十分間、というのもそうである。日に二回上演されたが、ショーは完全に本番の映画を食ってしまったという。

昭和31年初めに、周防町の小さな木造二階建て、松原ビルの一坪の四角い部屋を友達に紹介され、最初の事務所とする。家賃は千円だった。この狭い部屋に、知己の今東光師が遊びに来たり、サントリー宣伝部長と若き開高健が、『洋酒天国』用のマンガの注文にやって来たりした。「開高さんもまだ受賞前の宣伝部員で、大へん大きな声を出す人で、一坪の部屋にびんびんと彼の声がひびいた。」── さもありなん!
もう一人、特筆すべき人物のエピソードも書かれているので、紹介しておこう。それは昭和31年3月16日の彼女の日記メモに「福さん、夜、来室」とあるもので、福さん、とは本名、福田定一、即ち司馬遼太郎である。まだ産経新聞文化部のデスクで、直木賞をとる以前であった。「司馬さんは私の事務所の机に肩ひじをつきながらペルシアの幻術師の話をしてくれた。この夜が、彼が小説を書いていることを友人に告げた第一夜だった。彼は小説を書く前に、人にしゃべって、しゃべっているうちに構成をかさね、聞いている者の反応もたしかめていたらしい。」司馬氏の庶民的な大阪弁の話術のうまさに、ついついひきこまれ、夜が更けるまでうっとりと聞いていた。この作品は、しばらくして講談社、『講談倶楽部』が募集した賞に応募して一等に入選し、十万円もらったが、みんなからたかられてすぐ飲んでしまったという。司馬さんの第一作の誕生の現場に彼女も立ち会ったわけである。「ペルシアの幻術師」は現在、文春文庫で読むことができる。
その他にも、宇野千代のおしゃれの店「スタイルの店」に鴨居の商品が採用され、来阪した折に会った宇野さんのあでやかな印象なども書かれているが、あまりにも枚数をとりすぎたので、このへんで本書の紹介は止めておこう。

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