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44.鴨居羊子の絵とエッセイに魅せられて ─ 画家、鴨居玲とともに |
その後しばらくは彼女の作品世界から遠ざかっていたが、今年の春になって天六近くに新しく開店した古本カフェ「ワイルドパンチ」に出かけ、充実している文庫本のコーナー、とくに今は亡い旺文社文庫の並びを見ていたら、その中に鴨居羊子のものが目に入った。そのうち、『のら猫トラトラ』の方は、猫にはあまり興味がないのでパスし、自伝的長篇エッセイだという『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』(1982年)の方を買って帰った。 |
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さて、私にしては珍しく、買った文庫をすぐに読み出すや、たちまちぐんぐん引き込まれ、短期間のうちに読了してしまった。さすがに、元、新聞記者だけあって、文章は明快、簡潔で、自己表現力にすぐれている。いや、もっと文学的で、洗練された文体だ。そういえば、彼女の父親も、大阪毎日新聞と北国新聞で論説委員まで勤めた人だそうで、その文才を受け継いだのだろう。 | 「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」カバー |
ここで、その内容を紹介する前に、ごく簡単に彼女の履歴も書いておこう。大正14(1925)年、大阪府豊中市に生れ、記者であった父の転勤に伴い金沢、京城、金沢と移り住み、最後は神戸に定住。大阪女子大国文科卒業。1949年、夕刊紙「新関西」新聞社に父親のつてで入社、その後、大阪読売新聞社に移ったが、1955(昭30)年に退社する。1958年、下着デザインの製作販売会社チュニックを設立して成功する。1957年頃から斬新な下着ショーを各地で精力的に開催。1964年からヨーロッパ、地中海、アメリカ、メキシコなどへ出かける。絵の個展も10回を越える。1972年、最愛の母と愛犬、鼻吉(一代目)を続けて失う。1989年、弟の画家、鴨居玲が急死(57歳)、彼女も1991年、66歳で亡くなっている。著書に『花束のカーニバル』『午後の踊り子』『捨て猫次郎吉』『わたしのものよ』他がある。 |
さて、本書は「夕刊紙のかけ出し記者」という見出しで、彼女が昭和24年、「新関西」新聞社に入った頃から始まっている。(この頃、大阪では夕刊紙「新大阪」も出ていて、そこで足立巻一らが活躍していた。)この、新聞記者時代の回想が私としては一番興味を引かれた部分である。最初は外勤ではなく、六人程いる校閲部に入れられた。ぽっと出の田舎娘であった彼女には、経営陣、営業陣、記者、カメラマンも皆、いっぱしのさむらいばかりに映った。各々の部署の人たちを活写している所が面白いが、中でも「校閲部長は、文字、活字に関する記憶と正誤の発見が電子計算機のように見事であった。自分のデスクの前から原稿の山がなくなり、校正すべきものがなくなると岩波とか中央公論とかの分厚い新刊書をカバンから出して誤字をみつけ出そうとする正誤発見の虫だった。」という。また、もう一人の「おそるべき近眼鏡をかけたベテランで、校閲の虫のミスター・ブタ氏」はラッシュ・アワーの電車の中で、朝、髪をといたままで忘れた奥さんの赤グシをさしたまま、分厚い源氏物語をかみつくように読んでいたそうだ。まるで漫画にでも出てきそうな、愉快な人物ではないか! もともと人見知りのはげしい彼女は、記者の仕事がしんどくなった頃からよけいに人に会うのがいやになり、街中で出会うのら犬たちと知己になって彼らとつきあうのが唯一の喜びであり慰めとなる。彼女は見知らぬのら犬とすぐ仲良くなれる天性の技術(コツ)をもっていた。彼らへの思慕を仕事の合い間にこつこつ書き綴った原稿が三百枚もたまり、長い間本棚の隅に眠っていたが、下着屋を始めて三年目の昭和33年暮に『のら犬のボケ』として東京創元社から出版された。彼女が元気を出すためにも、書かざるをえなかった原稿である。その出版のいきさつは本書には書かれていないが、その頃はまだ書き手としては無名の鴨居羊子の文才を、出版社もよくぞ正当に評価して出したものである。 |
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