さて、ここからが文学史的にも注目すべき話になる。
新たに、頼子という女性が登場する。彼女は当時、新進女流作家として喧伝されていて、鳥羽が独文科卒の同級生達と出した同人誌『カオス』(実名)に彼女に寄稿してもらった際、お礼にブドウを持って会ったのが最初のきっかけであった。頼子の父はイタリーに大使として駐在しており(これは後述のように事実と違う)、兄と彼女が麹町の広い庭のある邸にもの静かに住んでいた。それ以来、彼は頼子の自宅の応接間か、書斎である簡素な茶室に通され、「二人は文学や、美術や、鳥や、風景やその他について、疲れずに四時間位喋べりつづけるのが常だった。」
鳥羽(豊田)は頼子の姿を「彼女はむしろ平安朝のやうな外貌をもつてゐて、その声に微妙なニュアンスがあつたが、眼にあやしげな魅力があつて時には魔女めいて見えることがあつた。」と描写している。さらに「頼子は既に廿六歳で、しかも伸々した豊かな躯をもちながら、人生的感情には超然と取澄ましてゐた。」とも。そんな彼女に鳥羽は内心、この取澄ました態度を破壊したいという強烈な欲望をも抱いていた。彼女に、夏になったら軽井沢の別荘にいらっしゃいませんか、と誘われ、出かけて行く。二人で人気のない山道を散歩して登っていったが、「彼女は微笑をかすかにただよはしてゐたが、鳥羽が挑みでもしたら、化石するか、鬼女にでもなりさうな気がした。」
ここまでは豊田とは階級も違う、ある女性作家との、ややフィクションめいた、かなわぬ恋のエピソードかと受け止めていた。ところが、次の箇所に行き当り、私はえっ?と驚いてしまった。「山荘に帰ると、F氏が頼子を待つてゐた。彼は仏蘭西詩から出発した若い作家で胸を患ってゐた。鳥羽も彼の著書で写真を見てゐたのですぐわかつた。頼子と彼が親しげに話してゐる友情を鳥羽はひそかに嫉妬してゐた。F氏は年若い聖者とも云へさうな風貌で、栗鼠の話をすると飄々と帰つて行つた。」と。
このF氏とは、文学好きには誰でも分るが、堀辰雄のことではないか!ということは、頼子はその堀が「聖家族」や「菜穂子」「物語の女」でモデルとして描いたという片山総(ふさ)子(=宗瑛)その人に違いない!私はにわかにドキドキした。文学研究者や堀ファンには周知の事実だが、堀の師である芥川龍之介も、この総子の母で、すぐれた歌人でありアイルランド文学の先駆的な紹介者でもある片山廣子(=松村みね子)と出会い、『或阿呆の一生』の一節で「彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。」と書かしめた。この芥川と片山廣子の関係も未だに謎めいているが、堀辰雄もまた、芥川らと一緒に軽井沢の「つるや旅館」で片山母娘と初めて会って以来、つきあいがあり、総子に強く魅かれていったらしい。 |