次に、林芙美子のエピソードを挙げておこう。
周知のように、和田芳恵は新潮社の編集者時代から芙美子とつきあいがあり、戦後も大地書房の『日本小説』の編集長として芙美子の短篇をよく載せている。そんな和田が最後の随筆集『ひとすじの心』(昭和34、毎日新聞社)中の「蟻うどん」で芙美子の思い出を綴っている。和田は彼女を親しみをこめて「お芙美さん」と呼んでいたという。和田によると、芙美子の最後の新聞連載小説「めし」(この連載の途中で急死する)は味もそっけもない題なので、「仲々、朝日新聞の学芸部で、うんといわなかった。」しかし、「お芙美さんは、この小説の取材で大阪へ行き、『めし』という看板が多く出ている大阪の町から、むんむんする庶民の活力を感じ、『めし』は大阪に生きる人たちのシンボルと思ったから、どうしてもこの題名をゆずらずに執筆したが、この小説は最初から多くの読者に持てはやされた。」
和田は芙美子夫婦が貧しくて満足に食事もとれなかった時代を知っており、『放浪記』のヒットでやっと世に出、朝日夕刊で「浅春譜」の連載が決ると、原稿料を前借りして、狂ったように食べ回った。そんな当時の思い出もよみがえり、「その気持の底から、すくいあげたのが、「めし」という題名だったから、どんな反対があっても、押し通したのだろう」と書いている。芙美子のタイトルへのこだわりには、歩んできた人生の重みがかかっているのだ。
和田は大地書房倒産後、自分で日本小説社をおこしたが、すぐに経営が傾く。和田はこう述懐する。「私の出版社は、社員の給料も払えなくなって、お芙美さんは、幾度か、みなで分けなさいといって、どこからか印税がはいったりすると呉れた。」と。苦労人である芙美子の温かい人柄が偲ばれるエピソードである。 |