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古書往来
41.タイトルにこだわる著者たちの話

次に、林芙美子のエピソードを挙げておこう。
周知のように、和田芳恵は新潮社の編集者時代から芙美子とつきあいがあり、戦後も大地書房の『日本小説』の編集長として芙美子の短篇をよく載せている。そんな和田が最後の随筆集『ひとすじの心』(昭和34、毎日新聞社)中の「蟻うどん」で芙美子の思い出を綴っている。和田は彼女を親しみをこめて「お芙美さん」と呼んでいたという。和田によると、芙美子の最後の新聞連載小説「めし」(この連載の途中で急死する)は味もそっけもない題なので、「仲々、朝日新聞の学芸部で、うんといわなかった。」しかし、「お芙美さんは、この小説の取材で大阪へ行き、『めし』という看板が多く出ている大阪の町から、むんむんする庶民の活力を感じ、『めし』は大阪に生きる人たちのシンボルと思ったから、どうしてもこの題名をゆずらずに執筆したが、この小説は最初から多くの読者に持てはやされた。」
和田は芙美子夫婦が貧しくて満足に食事もとれなかった時代を知っており、『放浪記』のヒットでやっと世に出、朝日夕刊で「浅春譜」の連載が決ると、原稿料を前借りして、狂ったように食べ回った。そんな当時の思い出もよみがえり、「その気持の底から、すくいあげたのが、「めし」という題名だったから、どんな反対があっても、押し通したのだろう」と書いている。芙美子のタイトルへのこだわりには、歩んできた人生の重みがかかっているのだ。
和田は大地書房倒産後、自分で日本小説社をおこしたが、すぐに経営が傾く。和田はこう述懐する。「私の出版社は、社員の給料も払えなくなって、お芙美さんは、幾度か、みなで分けなさいといって、どこからか印税がはいったりすると呉れた。」と。苦労人である芙美子の温かい人柄が偲ばれるエピソードである。


「図書」表紙
「図書」表紙

次に、現代の事例も挙げてみよう。
私は今年の何処かの古本展で一冊だけポツンとあった古い岩波の『図書』(1984年4月号)を見つけたので、のぞいてみると、すぐ目次上の小コラム ─ 読む人・書く人・作る人 ─ に、「書名の怪」田中克彦、とあったので、面白そうだと思い、買っておいたのである(100円也)。
筆者は著名な言語学者。ごく短文だが、全部も引用できないので、要約して紹介しよう。

田中氏は、大阪日仏センターで行われた公開講座の記録『西欧∝アフリカVS日本』という本を筆者の一人からいただいた。それはフランス語とその文化をメトロポリスから見るだけでなく、アフリカやカリブ海からも眺めるという試みで、氏はそれを評価し、丁度その頃担当していた『太陽』の書評欄でその本を取り上げた。ところで贈られた本には手紙が添えられていて、タイトル中の「∝」や「VS」はいずれも初め「・」(中グロ)としていたのを、出版社が勝手に変えて出したので、筆者たちはそれに抗議しているところだと書かれていた。ところが、その10日程後に有力新聞に載った同書の書評を見ると、「何とも変わった書名をつけたものだ・・・オーソドックスな文章家には一種の造反と映るに違いない。だがそれこそ本書のねらいであろう。」と書き出されており、田中氏はびっくりする。そして「いまはコピーライター的センスが本の題名を支配し、結局それで成功をおさめる時代になってしまったのであろうか。」と複雑な心境を吐露して終っている。著者たちの意図を無視して出版社が付けたタイトルが皮肉にも書評によって評価されたわけだ。おそらく著者たちは若いか中堅の研究者たちで、出版社側は力関係の上でまだこちらが上だと判断したのだろう。大家が参加しておれば、無断でタイトルを変えなかったに違いない。前述の芙美子のケースでも、彼女が無名時代だったらあのタイトルは決して通らなかったことだろう。

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