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古書往来
40.年譜未掲の矢田津世子作品を見つける!
─ 花田俊典氏による評伝とともに ─

私の仕事部屋がある西中島南方の駅前で、時たま、古本展が催される。
昨年秋も、電車を降りたその足で一寸のぞいてみた。あまり収穫とてないので、いつもざっと見て回る程度だが、その日はある古本屋のコーナーで、箱の中のビニール袋に入った戦前の大判の映画雑誌十数冊を何げなく見ていたら、その一冊の表紙の内容の主な表示に「小説 愛らしき同伴者 矢田津世子」とあるのが目に止った。

『東宝映画』表紙
『東宝映画』表紙

それは『東宝映画』(昭和15年7月号、東宝映画社)で、表紙の表と裏には若き日の高峰秀子の明るい笑顔を浮べた女学生姿が大きく載っている。他の目玉として、長谷川伸「日本映画に望む」や吉屋信子「私の望むこれからの映画」も挙がっている。私は矢田津世子の小説は好きで、今までにも割に読んでいるが、このタイトルはどうも記憶にない。まあ、戦前の雑誌にしては千円と安い方だし、と思い、早速レジに持っていった。

部屋に着いて早速、頁をあけると、すぐ「女の街」という今井正演出、原節子主演、沢村貞子ら共演の東宝映画の宣伝頁が現れ、原節子の大写しの顔写真がある。中ほどのグラビア頁にも彼女の一頁大の洋装姿の写真が載っており、原節子ファンにはたまらない中身かもしれない。
さて、矢田の小説はと見ると、1頁三段組みで3頁のもの。そこに宮本三郎のかなり大きな挿絵が二葉入っている。
ごく簡単にあらすじを紹介しておこう。


主人公の郁代は35歳の独身で、女学校で英語を教えている。両親も亡くなり、女中と二人で住んでいる。この女中は孤児収容所で育った満州人の小娘で、知人夫婦が満州から帰国する際に連れて帰り、手不足の郁代を見かねて世話したのだ。小柄で丸っこい、ソバカスをつけた、間の抜けて見える子である。それでも、知人夫婦にしつけられ、とても掃除好きで朝から何回も縁側をふいたりするが、念入りすぎて失敗することも多い。ある日、郁代が学校から帰ってみると、台所の板の間にぺったり座りこんでいる。風邪を引いて熱を出していたので、寝かせて見守っていると、うなされて眼から涙が出ている。郁代は、何か悲しい夢でも見ていたのかと、不憫でならなくなる。そのとき、この間から考えていた女中の淑江(しゅくこう)の新しい名前、「幸子」を思い出し告げると、淑江は「サチコ、サチコ」とニコニコして何度もくり返していた。
ある日、小田原の親戚の叔父に法事で呼ばれ、郁代は女中にピンクのかわいい洋服を仕立ててやり、一緒に連れてゆくが、そこでも意地のわるい視線で扱われる。叔父の話は、そろそろ跡継ぎとして叔母の四男を養子にもらったら、という強圧的なものだった。帰りの車中で、普段無口な淑江は珍しくおしゃべりになり、郁代も彼女に、これからは奥さまと呼ばず、「先生」と呼んでくれと語る。最後は次の文章で終っている。
「淑江への気持ちがこれまでにない親しさで寄り添った。それは、無縁の孤児どうしの頼りあった気持ちにも似ている。淑江の姿をしみじみ見守りながら、これからの先きざき淑江を心の中においた生活の楽しさを思って、郁代は明るい気持がしてゐた。
先刻の伯父の話しは、はっきり断はろうと心に決めた。」と。


ごく小品でそれほど力を入れた作品とも思われないが、弱い立場の者への暖かい労りの心が随所に素直に感じとれる好短篇である。これは初期のプロレタリア小説以来、一貫した矢田の姿勢でもある。とともに、彼女らしい、働く自立した女性への共感も感じられる。矢田が『東宝映画』から依頼されたのは、それまでにも、矢田と映画や映画ジャーナリズムとのかかわりが深かったからだろう。年譜によると、矢田31歳の折、昭和13年に「秋扇」という作品が「母と子」の題で田中絹代主演で松竹で映画化されているし、昭和15年にも「家庭教師」が同題で松竹から封切られている。随筆にも「映画『母と子』にふれて」や「家庭教師」のシナリオを読んだ感想など書いているし、「母と子」の時は撮影所にも見学に行っている。そんな中で映画雑誌の編集者たちとも懇意になったのだろう。(『映画の友』や『日本映画』にも随筆を寄せている。)

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