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古書往来
58.古本屋主人の書いた小説を読む ─ 寺本知氏の詩と文学 ─

私は寺本氏の作品がとても気に入ったので、氏の詩集などもぜひ読みたくなり、再び図書館に出かけて、在庫を検索してもらった。すると、『魂の糧 ─ にんげんを求めて』(1997年、解放出版社)が在庫があり、近くの野畑図書館に『焦心疾走』(1981年、豊中文学)、『にんげん』(1986年、豊中文学)、『しのぶ草 寺本知は生きている』(1997年、寺本知を偲ぶ会)があるという。もちろん、すぐにすべて取寄せてもらった。

「魂の糧」カバー
「魂の糧」カバー

まず『魂の糧』は没後一周忌に出版された寺本氏の主要著作集で、前述の小説、詩作品抄、部落解放運動の証言、「文化運動と私」と題する講演集、運動で交流のあった師や先輩、友人との「出会いと別れ」を語った追悼文集、青年時代(敗戦まで)の聞き書き、から成っている。
特筆すべきなのは水上勉氏が温かく敬愛に満ちた序文を寄せていることだ。

水上氏は「寺本知さんが亡くなった……(中略)……また、灯が消えたと思った。淋しくて、やりきれない。寺本知さんは、この世に生きておられるだけで、私には歩く道を照らされていた人なのだ。」と書き出している。氏の人柄をふり返り、「頭のひくい、控えめな人で、燃えているものの激しい色を心奥にかくしていた人だったと思う。」と鋭く指摘している。それは小説の主人公ともダブルところがある。氏は、寺本氏の「青い炎」という詩を引用して、「若々しい詩人だった思いがいま、つよくするのである。」とも述べている。

このへんで、本書巻末の年譜によってごく簡単に氏の文学的履歴を紹介しておこう。(運動関係は省略)
大正2年、大阪府豊能郡豊中村に生れる。大正8年、克明尋常小学校へ入学。昭和6年、豊中市書記となる。昭和12年から19年まで古書店経営(戦前もやっていたのだ!)。昭和19年、谷中英美子さんと結婚。戦後、大阪府厚生課主事を最後に退職し、昭和23年から昭和38年まで15年間、豊中市岡町にて古書店「文苑堂(魂の糧を売る店)」を経営。─ 私の思い込みにすぎないが、この屋号は、ひょっとして大阪出身の美本出版でよく知られた出版社、金尾文淵堂が頭の隅で意識されていたのかもしれない。とくに昔の古本屋はこの出版社の本を大抵高く評価している。昭和23年、大阪朝日会館での民芸「破戒」上演に協力する。33年に『豊中文学』を創刊し、小説「黒い雪」を発表。昭和33年より岡町商店街会長となる(昭46年まで)。38年、古本屋をやめ、喫茶店「ドラン」を経営。同年、豊中市会議員に当選し、以後昭和62年まで連続6期勤める。昭和56年、詩集『焦心疾走』刊行。61年、詩集『にんげん』発刊。平成2年より、大阪人権歴史資料館(リバティおおさか)館長となる。平成6年『寺本知のとわずがたり にんげんはすばらしい』発刊。平成8年、82歳で亡くなっている。

『魂の糧』と『寺本知は生きている』には口絵に氏の写真アルバムがいろいろ載っており、両書共にある一頁大の氏の講演中の写真は、柔和でおだやかな人柄が表情によく表れていて、人気映画「男はつらいよ」の二代目おいちゃんを演じた下條正巳にどことなく似ている、文苑堂時代の店をバックに写った写真も二枚あったが、無断で掲載はできず、残念だ。


『寺本知は生きている』の方をまず見てみると、これにも最後に『閑古堂日録』が収録されており、よほど本人も愛着があり、周囲からも評価された作品なのだと分る。本書は奥様や氏の子息や娘さん、それに大部分は豊中の運動関係の人たちが寄せた小冊子の追悼集。中で一篇、友人の森本林正氏が書いた「思い出すままに」という一文が目に止った。読んでみると、往時の文苑堂の店の様子が詳しく活写されているではないか。貴重な証言なので長くなるが引用させていただこう。

「寺本知は生きている」表紙(野畑図書館蔵)
「寺本知は生きている」
表紙(野畑図書館蔵)

「文苑堂書店は年譜によると昭和二十三年に開業とある。寺本さんの戦前の店 ─ 豊中の旧街道沿いの店とは、比較にならぬほど明るく新鮮で軽やかな感じで、戦後の生まれ変わった岡町商店街の一角に誕生した。
その店が本棚から雑誌台、飾りつけの額にいたるまですべての造作が立派になり、阪急宝塚線随一の古本屋にまで成長してきたのは何年頃であったか、今はもう確とは覚えていない。唯だ実に個性的でしっくりした店となっていた。寺本さん本人の人間性のそのユニークさが反映されていたからだろう。……(中略)……その人間的な奥の深さ、面白さ、温かな優しさは、古本屋としては実に特異で破格の存在であった。」と。

そんな寺本さんの人柄に魅かれて店にやってきた客同士が「老若男女、職業貧富を問わず喋り合うサロン的な井戸端会議が、店の奥の勘定台周辺でいつも始まった」と語る。これは氏自身の魅力はもちろんだが、「同時に戦後民主主義がまだ若々しく息づいていた時期であったことも大いに影響していると思う。」と森本氏は書いている。
この証言はまさに小説に生き生きと描写されている通りで、森本氏もその登場人物の一人として描かれていたかもしれない。ただ、私にしてみれば、戦後の文苑堂が閉店したのが昭和38年、当時まだ17歳で神戸の古本屋はのぞいても豊中へは出かけたこともなく、その店を知る由もなかったのが残念でならない。

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