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古書往来
54.大正モダンを駆け抜けた画家、吉田卓と森谷均の若き日の交流

これからが今回の目玉である。吉田卓の図録を見てゆくと、巻末に「森谷氏宛吉田卓書簡」が二頁にわたって収録されているのが目に止った。すべて「森谷均宛」のものである。残念ながら、往復ではなく吉田氏から森谷氏宛の書簡のみで、11通ある。まえがきに「森谷均氏は、吉田卓の理解者であり、支援者でかつ友人であった。獅眠庵という詩の結社を主宰。」とある。日付は大正13年6月から大正15年6月までのもので、森谷氏の住所は大阪市南区天王寺寺田町から同天王寺勝山通(獅眠庵)、住吉区天王寺町などと五ヵ所も変っている。吉田氏の方は「東京府外上落合七四二」と同「長崎村並木一三三四」から出している。

内容の大半は絵描きという仕事や生活の苦しさを訴え、森谷氏に作品を託してそれを心当りの絵画ファンに紹介して売ってもらうよう頼んでいるものだ。その他、東京の画壇の様子を簡単に伝えたり、大阪の画壇の動向を尋ねたりしている。大正13年9月30日付の手紙では、中原実がアンデパンダンを始めるそうで、会って話したら自分の考えと同じなので、そちらに出品したいと思っている、などと書いている。手紙によると、小出楢重とも交流があったようだ。

すぐにピンときたのは、この森谷均氏とは、後に詩や美術の良書、限定本や特製本を数々出し、今も古書ファンの多い昭森社社主のことではないか、ということだ。不思議なことにそのことには、この図録では一言も触れていない。そこで私は確証を得るため、大部以前に手に入れた『本の手帖』別冊、森谷均追悼文集(昭45、昭森社、非売品)を自宅の本棚から取り出してきた。私の持っているのは、もういつのことだったかも覚えていないが、どこかの古本展の均一本のコーナーで見つけた、全体が相当な水ヌレで汚れ本だが、中身はちゃんと読める。

『本の手帖』別冊 森谷均追悼文集
『本の手帖』別冊
森谷均追悼文集

本書自体、森谷氏とかかわりのあった多くの文学者、詩人、画家、編集者の追悼文が収録されており、前後には写真アルバム、巻末には昭森社の年度別刊行書目、書影も付いた充実した一冊である。

古本好きには周知のことだが、ごく簡単に森谷氏の履歴を紹介しておこう。明治30年、岡山県の笠岡で大地主の家に生れ、中央大学商科を卒業、大阪の東洋紡績庶務課に入り、14年間会社員生活を送り退社。サラリーマン時代から、美術愛好家、書物狂として東京でも名が聞こえていた。昭和9年、書物展望社、斎藤昌三に招かれて経営危機を助けるため入社、白秋の『きょろろ鶯』、辻潤の『痴人の独語』など五、六冊を担当する。昭和10年、独立して銀座二丁目で昭森社を創め、大阪時代から交流のあった小出楢重の遺稿集『大切な雰囲気』を処女出版として刊行(特装版、書痴版など五種)。以後、美術書として東郷青児『手袋』『カルバドスの唇』、里見勝蔵『赤と緑』などの随筆集、田中冬二『花冷え』、北園克衛『火の菫』などの詩集、佐藤春夫『霧社』、木山捷平『河骨』、稲垣足穂『山風蠱(さんぷうこ)』などの小説集を美しい装幀・造本で続々刊行する。

小出楢重『大切な雰囲気』書痴版
小出楢重『大切な雰囲気』書痴版
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田中冬二『花冷え』特製

戦後も数多くの詩集の他に雑誌『思潮』3号、『詩と批評』を31号、『本の手帖』を83号まで出した。─ これは私も少しは蒐め、15冊程持っている。「処女詩集」(正続)や「処女歌集」など、出版史の貴重な資料となる特集が多い。戦後すぐ神田神保町一丁目の木造二階建て社屋の一階に喫茶兼酒場『らんぼお』も経営(昭和24年まで)、戦後派の文学者たちのたまり場になった。戦前、戦後しばらくの編集部の様子は本書で、昭和16〜17年頃入社した菊池章一(『思潮』の編集者)や長橋光雄が回想している。常時4人位の編集部員がいて、その中に『ひめゆりの塔』を出した石野径一郎や、児童文学者の筒井敬介も校正手伝いでいたという。森谷氏はロダンの刻んだバルザック像に似ているところから、和製バルザックと呼ばれ、その豪快な笑い声が特徴の大らかな人柄が多くの人に愛された。昭和44年71歳で亡くなる。

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