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古書往来
53.作家の名前コンプレックスあれこれ

今年の夏は酷暑続きで体の調子をくずし、あろうことか、毎年出かけていた京都下鴨神社の古本祭りもついにのぞかずじまいだった。古本者失格である。実は初日、昼頃に神戸で所用があり、その後、京都三条で久しぶりに東京から来た古本屋の友人、玉睛(※1)の堀口氏にお会いしたのがすでに三時半で、夕方六時から三条近くで林哲夫さんの『古本屋を怒らせる方法』(白水社)の出版記念会を兼ねた「スムース」友の会の集まりがあったので、下鴨には行かず、そちらに参加したのだ。本書の出版化を企画し手伝ったのが私だから、出席しないわけにはゆかない。そこで錚々たる古本好きの人たちの当日ホカホカの収穫本を次々に見せられ ─ 掘出し本もいろいろあった ─ こりゃ、後日行っても、ろくな本は残ってないな、とあきらめたのである。いや、それも口実で、もう歳なのか?

※1 きゅうせい=正しくは玉ではなく、点の位置は横棒1本目と2本目の間になる。

さて、今回は頭がボーッとして、複雑なことも書けないので、以前から気になってぼつぼつ蒐めていた、作家の「名前」をめぐるエッセイをウダウダ紹介して退散することにしよう。実はこのテーマについては、すでに『古本が古本を呼ぶ』の巻頭に一文を収録している。私はどうも一度書いたテーマにいつまでもこだわる性質らしい。
そこでも書いたが、私は自分の名前にコンプレックスがあるので(第一、テルツグなんて、舌がもつれて発音しにくい!)、作家たちの名前へのこだわりにも、つい共感してしまうのである。
私はその文中で、林芙美子の随筆を引いて、彼女の日本の画家の名前への好悪を紹介し、「芙美子は自分の名前についてどう考えていたのだろうか」と書いたのだが、その後古本で見つけた和田芳恵の随筆集『愛の歪み』(昭44、中央大学出版部)を読んでいたら、「林芙美子の一面」という文章に出会った。そこには、戦前、新潮社の編集者の頃から芙美子と十五年程つきあいのあった和田氏から見た、彼女の「多面的で複雑」だが、根はやさしい心情や行動が描かれている。若い頃だと思うが、お芙美さん(和田氏の愛称)は彼の小説を幾度も読んでくれ、「『ねえ、名前を取りかえなさいよ。ぱっと、まんなかから二つに割れる名前がいいのよ、林芙美子、まんなかから、ぱっと二つに割れても同じかっこうでしょう』と、自分の天分をかくして、よい小説が書けるのは、自分の名のせいのようにいうのであった。」と書いている。この文脈からすると、彼女はけっこう自分の名前が気に入っていたようだ。しばらくして和田氏が芙美子宅を訪ねると、彼女は「いいペンネームを考えたの」と言って、奥の居間の神棚の前に連れていき、供えていた和田氏の名前を書いた奉書を下げると、そこには「中川周吉」と書かれていた。氏が初めて原稿料をもらった短篇小説「棄て場所」はその名前で『若草』に載ったという。しかし、それ以上は詳しく書かれていないが、このペンネームは一時的で、戦後は本名の「和田芳恵」で作品を発表したようだ。

さらに、元町「コリノズ」で手に入れた和田氏の『私の内なる作家たち』(1970年、中央大学出版部)に収録の「小さな足あと」には氏の名前の由来が書かれている。
北海道で麹屋を営む家に生れた和田氏だが、次兄の生れた年が恵比須講にあたっていたので「商売繁昌にあやかるように、恵の一字をもらって、敏恵としたそうである。」芳恵もそれから来ているが、初めは他の名前も検討されたらしい。三兄の三郎にちなんで、四郎も考えられたが、その頃、家にシロという飼犬がいて、まぎらわしいからと母が反対したという。たしかに、犬とまちがわれては大へんだ。

「私の内なる作家たち」表紙
「私の内なる作家たち」
表紙

氏は正直に、父が「女としか思えないような名を付けた」と述べているものの、とくにそれを嫌ったようには書いていない。それなら、全く違うペンネームを使ったはずだから。うがった見方をすれば、芳恵の方が樋口一葉研究家としては似合いの名前で、つまり、女性と誤解された方が、本もよく売れると、現実的な判断もしたのかもしれない。(芳恵といえば、私はすぐ往年のアイドルで現在も活躍中の柏原芳恵さんを思い浮かべる。何を隠そう、私もファンである。)

同書中の「筆名考」も興味深い。和田氏は徳田秋声を深く読みこんで研究した作家でもあるが、そこで、秋声の随筆集『老眼鏡』(昭15)にある「雅号の由来」という短文を紹介している。孫引きになるが、再引用しておこう。
「姓名や雅号の文字面が、作家や作品に対する読者の感銘に投ずる影響は相当大きいものがあらうと思ひます。……(中略)……私が若し森鴎外(※2)とか、尾崎紅葉とか、夏目漱石とかいふ名前だったら、もう少し別のものを書いたかも知れませんし、私の今迄の作品がもう少し異なった感じを与へたかも知れません。しかし、それも自己嫌悪の僻みかも知れません。」と。そして、「秋声」の雅号は若い頃の支那風の感傷的な思いつきにすぎなかったとも述べていて、和田氏も「徳田末雄が秋声の号を付けたのは、欧陽修の『秋声賦』あたりに拠ったのかもしれない。」と推測している。
こうした秋声の名前へのコンプレックスにもかかわらず、和田氏はこの名前の二重性(末雄と秋声)が、創作と実生活に働いて、筆名が精神的なかくれみのになり、家庭生活を破壊することなく真実を追究する鋭利なメスとなったと考察している(この議論はもう少し複雑だが)。こうなると、名前もなかなか奥が深い意味をもつ。

※2 『鴎外』の『鴎』のへん「メ」は「品」となる。

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