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古書往来
54.大正モダンを駆け抜けた画家、吉田卓と森谷均の若き日の交流

さて、例によって解説や年譜に拠って、吉田氏の簡単な履歴を紹介しておこう。氏は明治30年、広島県福山市の旧家に生まれた。小学生時代、機械体操の名手だったと友人は語る。福山中学(旧制)を中退して上京、神田の私立正則中学を卒業する。大正9年頃(23歳頃)川端画学校(本郷)洋画研究所に学び、内田巌と親交を結ぶ。あまり真面目な学生ではなかったが、描写力は一目置かれ、内田を始め、五、六人の取巻きもいたという。大正11年、第9回二科展に<<椅子に凭る女>>を出品して初入選する。大正13年、大阪へ旅行。14年、当時モデルだった狩谷時枝と結婚する。15年、台湾を旅行。この年、<<羽扇を持てる裸婦>>が二科賞を受賞する。昭和2年、新宿、紀伊國屋のギャラリーで、林重義、古賀春江と小品三人展を開催した。(こういう今も評価の高い画家と一緒に活動した人なのだ!)昭和4年、渡欧を計画し、後援会結成のため、関西に旅行中、発病し、2月25日、大阪の病院で急逝する。32歳! 早すぎる死であった。そういえば三岸好太郎も昭和9年、名古屋で旅行中に32歳で亡くなっているので、似通っている。五月、福山市福山医師会館で追悼遺作展が開催された。

「羽扇を持てる裸婦」大正15年(ふくやま美術館蔵)
「羽扇を持てる裸婦」大正15年
(ふくやま美術館蔵)

吉田の画風は、二科会の多様な画家の影響も受け、目まぐるしく変遷した。岸田劉生らの草土社風の緻密な描写から、写実、セザンヌ風、分析的立体主義、幻想的画風、新古典主義、という風に。しかし、最後の新古典主義的傾向が「吉田のなかで血肉化されてゆくように、自己のものとなっていった。」と谷藤氏は述べている。そして巻末に収録されている吉田の自稿「画人独語」(大正13年)の中から、次の文章を引用している。

「我々は崇厳の中に生きているという事を忘れたくない。東西古今を通じ幾多の名画が持つその厳しゅくな感覚 ─ 生命 ─ は我々人悉くが持つ生命の真に最も美しく触れ最も貴く感じる或る崇厳な感覚である。」と。これを読むと、ある種の宗教的境地にまで達しているように思われる。氏は巻末の大正15年の書簡(後述)の中でも、くり返し「最近はコロー、ボナール、クールベ、アングルなどが好きになった」と告げている。図版の油彩はどれも私は気に入ったが、中でも二科賞受賞作を含む裸婦像たちは、女体の圧倒的なボリュームと存在感が迫ってきて魅力的だ。また大正13年作の「静物」は分析的立体主義の影響を受けた作品で面白い。

「静物」大正13年
「静物」大正13年

さらに私が引きつけられたのは後半の水彩画の図版である。谷藤氏の解説によれば、当時の前衛的な画家たち、村山知義や中原実、古賀春江らとも交流があり、超現実主義的作風や抽象画まで描いている。未来派(?)風の「玉乗り」や簡略にデフォルメした裸婦像など、全体に明るく、淡い色彩の配合と相まって楽しい作品に仕上っている。自由で伸び伸びしたタッチで描かれていて、これらは実際、図録で見る村山知義や古賀春江の児童向けの水彩画との共通性を感じさせられる。

「玉乗り」(ふくやま美術館蔵)
「玉乗り」(ふくやま美術館蔵)
「子供達」(藝林所蔵)
「子供達」(藝林所蔵)
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