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53.作家の名前コンプレックスあれこれ |
「日本語の周辺」カバー |
これも「コリノズ」で最近手に入れた臼井吉見の『日本語の周辺』(1982年、旺文社文庫)にも、おあつらえむきに「姓名判断」なる一文があった。 |
高校に入ってからは万葉集が好きになり、ある時、天武天皇の吉野遊覧の折の一首が目に止った。その意は、この吉野は、古来よき人が、よしとよく見て、ほめたたえた所で、よく見るがよい、というもので、吉見が二度繰り返して現れてくる。氏はこれが名前の出典かと思ってうれしくなった。祖父が隣村の風変わりな俳句の宗匠の老人に相談して、万葉集の中から見つけてくれたのに違いないと判断した。ところが、晩年の父に名前の由来を尋ねたところ、あれは自分が付けたもので「出典なぞあるものか。吉を見るように、いいことがどっさりあるようにというわけさ。」と言われ、自分の名前へのロマンティシズムが音をたてて崩れ去った、と告白している。自分なりの思いこみのままの方がよかったかもしれない、と同情する。 |
次は高見順のエッセイから。 |
「悪女礼讃」表紙 |
「芳雄というのは、せっかく、親のつけてくれた名だが、私は実はきらいだった。中学生のときに、友人がこっそり貸してくれたワイ本を読むと、その主人公が芳雄さんという名だった。女が芳雄さん芳雄さんという。以来、どうも、芳雄というのは、いやになった。」と。傑作な理由だが、多感で純真な(?)思春期の頃だから、それもムリはない。氏は山田耕筰氏とつきあいがあり、山田氏が一時、姓名判断に凝っていたので、高見氏の本名、高間芳雄の字画を数えてマズイと言い、「識史」(ツネト)と改名しろと勧められたという。しかし、その頃すでに秘密で高見順のペンネームで書いていたので、改名は断念したそうだ。「高見順」の方は東大生以来の親友、新田潤と、道を歩きながら、ジュンの名をわけあったと、氏のエッセイに書いてあったが、雑誌出典がはっきりしない。私の主観でも、高間芳雄というと、何だかこわーいお兄さんか刑事なんかを連想させて、あまり感じがよくない。前述の和田氏の考察のように、この名前では読者にあまり読まれなかったかもしれない。 |
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