内容は、さすがに日本の古典を材料にした国文学者らしい達意のエッセイが多いが、それだけでなく、近代文学の作家、鴎外や藤村、川端、太宰、芥川などの作品も所々引きつつ話題に盛り込んで書いていて、視野の広さが伺われる。「作家の不幸」では、その作品が高く評価されている「啄木にとって伝記のすみずみまで詮索されない方が幸福であった」とし、一方、子規は啄木と対照的で、よく知られた闘病生活などを通してあまりに人間的魅力がありすぎるため、作品の方がそのままに読まれず、啄木ほど作品が広く読まれていない、と嘆いている。私はなるほどな、と教えられた。そういえば、藤村や荷風も啄木と一寸似たところがあるのではないか。
日本古典にさほど興味のない私がやはり一番面白かったのが「ふるほん」である。
白方氏は教員採用試験の面接で、調書の趣味欄に「古本あさり」と書いて、開口一番、質問されたと書き出し、「私にとって古本を語ることは、また読書歴を語ることでもある。」と続ける。早くも小学五年生の頃、科学冒険小説を多く読んでいる友人Tにつられて、毎日貸本屋に通い、海野十三や山中峰太郎のものなどをむさぼり読んだ。敗戦後は通俗小説耽読の時代で、中学二年頃から、二、三日に一冊位のスピードで、菊池、久米、吉屋信子、小島政二郎、吉川英治などの作品を読んだという。高校一年のとき、転機が訪れ、貸本店の帳場の後の棚にあった岩波文庫の『クロイッツエル・ソナタ』と独歩の『運命論者』を続けて借りて読み、そこに人間とは何か、その真実を見出した。
白方氏は「この二冊の文庫本が以後私を古本屋に通わせ、国語教師にまでしたことを思えば、まさに運命的な出合いといってよかったであろう。」と書いている。これは奇しくも、前述の三沢氏の和本との出合いと共通しているではないか。
その頃の学校図書館は蔵書も少なく、新刊も少なかったので、古本屋通いが始まる。高校時代は太宰治やチェーホフに夢中になった。その頃の松山には松菊堂、州之内徹がやっていた小さな古本屋!、松山堂、クリスチャンの若い婦人のいる店、明屋古書部などがあり、中でも松山堂のおやじさんには長くお世話になった、と記している。場所の記述もあるので、当時の松山の古本屋地図の貴重な記録であろう。
大学へ入ってからは太宰かぶれを卒業し、小説から国文学関係に漁書の対象が変った。小遣いが少ないので、ケチッたため、見つけた山田孝雄『平家物語』500円、小西甚一『梁塵秘抄考』450円、など基本的文献や近世文学の板本類を買い逃し、後になって高価になったときにはもはや手が出なくなっていて、今に心残りだなどと、大へん正直に述懐している。 |