← トップページへ
← 第56回 「古書往来」目次へ 第58回 →

古書往来
57.編集者、松森務氏の軌跡を読む ─ 白鳥書院から平凡社への道 ─

さて、次に印象に残った所を順次簡単に紹介してゆこう。
松森氏は昭和10年に二商に入り、二年生の三学期頃小説を書き始め、校友会誌『桑都(そうと)』に30枚程の小説を投稿、評判になる。上級生に三好豊一郎がいて、すでに詩を発表していたが、在学中は面識がなかった。氏は早くから絵を描くのも好きで、校内行事のポスター募集で入選したりしている。松野杜夫のペンネームで、仲間を集め、回覧雑誌を作り、表紙の絵も楽しんで描いたという。すでにこの頃から、後年の編集者志向が芽生えていたのだろう。
卒業後、東京海上に入り保険業務に就くが、一方でその頃八王子にあった文化連盟(会長は瀧井孝作)に入会し、演劇部に入って活動する。社内にも演劇研究会を作り、生涯の親友となる松浦健郎や二人のマドンナたちとの愛と別れ ─ 青春の交友を描いている。やがて社の台湾出張所造りに応募して出発する際、別れの記念に、マドンナの一人に三好達治『一点鐘』を贈り、彼女からは高村光太郎の『智恵子抄』をもらった、というのもいかにもその頃の文学青年らしいエピソードだ。今の恋人同士とは違い、お互いに好きでも、なかなかそれを告白できない、プラトニックな交情であった。未練を残しながらも、それを美的感情に昇華させようと努力している。台北時代にも仲間と同人誌を作ったが、そこで知合い仲良くなった姉妹の姉の方に、氏が病気になり一年後帰日する折、別れの贈り物としたのも、三好達治の詩集『春の岬』であった。
日本に帰ったものの、戦争末期で、昭和20年3月、東京大空襲が始まり、疎開する人々もふえる中、二商の同窓生からその兄の蔵書である改造社の63巻の円本全集を安く買わないかと言われる。古本の値より安いとはいえ、給料の倍の二百円なのであきらめていたところ、母がそっと買って置いてくれたという。「その夜から僕は猛烈な勢いで読み始め、ほぼ二ヶ月で全部読み了った。」というから、何ともすさまじい読書である。今は本があふれかえっており、読書もさほどの有難みがないが……。

八月二日の八王子空襲の様子も生々しく描写されているが、氏一家の家も跡形もなくなり、氏だけ病身なので東京海上の女性社員で被災を免れた家に泊まらせてもらうことになる。また社員仲間と回覧雑誌『藪柑子』を作り、文章や短歌を載せ、表紙やカットの絵も氏が沢山描いた。その雑誌を持って、詩を書く仲間と、近くに住む詩人、小川富五郎に会いに行く。小川氏は東洋大学の支那哲学科を出て、千家元麿の『詩篇』同人に。昭和14年に村野四郎の推せんで『新風土』同人となる。昭和15年には詩集『近世頌歌』を書物展望社から限定100部で出した、モダニズムの詩人である(これは昔、石神井書林目録で、カバー、署名付きで2万円で出ていた。)小川氏は『藪柑子』を見て、その表紙、中味の作り方に感心し、かねて作りたいと思っていた市販の詩の雑誌作りの伴侶として、松森氏を熱心に誘った。氏もそちらに全力を投入するため、決心して東京海上を退社する。
出版社名を「白鳥書院」に、雑誌名を「子供雑誌」とすることに決めた。(私は今まで目録でも、この雑誌が出ているのを目にした記憶がないが。(※1))そして、千家元麿(小川氏の従兄に当る)、村野四郎、岩佐東一郎、南江治郎、城左門(モダニズム系詩人が多い)などに詩を依頼し、皆、快く引き受けてくれた。清水崑にも漫画を描いてもらおうと訪問したが、岡本一平の弟子になって苦労した話などをしてくれたという。清水氏も毎日朝、自画像を十枚程デッサンしてから仕事にかかる勉強家と聞き、感心している。

※1 不思議なことに、校正中に届いた2店の目録にはこの雑誌が登場した。私が呼び寄せたごとく……。

『子供雑誌』創刊号は昭和21年6月、A5判64頁、鈴木信太郎の表紙で2万部出した。松森氏も小カットや挿絵を描いた。2号から『子ども雑誌』と改題し、上林暁や壺井栄の童話を載せ、武者小路実篤も執筆した。その頃、木津柳芽の句集『あさゆう』も出している。しかし、昭和22年になると、『赤とんぼ』とか『子供の広場』といった児童雑誌も出始め、やがて大手の講談社や小学館からも戦前の児童雑誌が復刊しだしたので、『子ども雑誌』の売行きは落ち、返本がだんだん多くなってゆく。目録など見てみると、講談社の『少女クラブ』や『少年クラブ』が出ているのが分る。そこで、内容のイメージを変えようと、清水崑さんに相談に行くと、即座に彼は「茂田井武がいい」と叫んで紹介される。松森氏がそれまで知らなかった画家である。茂田井氏は戦前『新青年』に小栗虫太郎の「二十世紀鉄仮面」の挿絵を描き、崑さんは感心したという。
「白鳥書院時代、またそれに続く長い編集者時代を通してみても、茂田井武程、僕に強烈な印象を与えた人はいない。」と氏は記している。彼は明治41年、日本橋の旅館の次男として生れた。昭和4年、21歳の時、朝鮮、モスクワを経て、パリに着き、日本人向け食堂で働きながらパリの下町の庶民の生活の喜怒哀楽を何冊もの絵日記に描いた。彼は絵を描くのに資料を必要とせず、見たものをすべて頭の中に焼きつけていた、という。「『子ども雑誌』に三号連載で描いた絵物語「星の環」は素晴しい作品だった。」とも。

<< 前へ 次へ >>

← 第56回 「古書往来」目次へ 第58回 →

← トップページへ ↑ ページ上へ
Copyright (C) 2005 Sogensha.inc All rights reserved.