さて、ここで意外な人物の登場に私は驚いた。松森氏は茂田井さんの家で、山本夏彦氏が訳して出した『年を経た鰐の話』を見せられて感心し、山本氏を訪問したというのだ。結局、山本氏からは原稿をもらえなかったのだが、茂田井氏と山本氏の関係が面白い。茂田井氏は若き日、パリに行く前、アテネ・フランセでフランス語を学んでいたが、そこに当時中学生だった山本氏も通っていたという。そして「山本さんは中学を中退して十七歳で唯一人パリに渡り、そこで二十二歳の茂田井さんに再会した」のだ。二人はすぐに意気投合し、数ヵ月共に暮した仲であった。
ところで、『子ども雑誌』の売行きはますます悪くなり、昭和23年には『金と銀』に改題するも、売行きは好転せず、ついに出資者の小川氏の義兄は白鳥書院をやめることにした。出版協会に相談に行き、その誌名を多額の金で買い取ってくれたのが文寿堂で、小川氏が松森氏をそこで雇ってくれるよう頼んでくれた。
昭和23年5月、氏25歳のとき、有楽町にある文寿堂に入社、その頃中央公論社で『少年少女』を編集していた光吉夏弥氏が引き抜かれて『金と銀』の編集長となった。その時、同時に佐藤仁、浅井三千世も編集員に呼び寄せたが、浅井さんは明治の有名画家、浅井忠の弟の孫であった。
『金と銀』の新装第1号は瀟洒な出来栄えで、脇田和の表紙、福田恒存の絵物語、鈴木力衛の連載小説、幸田文の童話などが載った。しかし、文寿堂も『金と銀』第3号が出た昭和23年の年末頃、倒産してしまう。このあたり、戦後すぐの小雑誌社の浮き沈みの激しさが痛感される。ただ幸いに松森氏は今度も光吉氏の世話でアメリカの『スーパーマン』日本語版を作る仕事で、銀座六丁目のコミックス社に入ることになる。この出版企画の中心は元大船のスターだった山内光こと岡田桑三氏で、スタッフは昭和16年設立された対外日本宣伝の写真誌『FRONT』─ 最近再びクローズアップされている ─ を発行していた東方社時代の仲間を集めた錚々たるメンバーであった。(岡田氏は東方社の理事長をしていた。)その理事の一人だった岡正雄(民族学者)や製紙業界の高島泰治氏、光吉氏、参議院議員の大隈信幸氏を発起人とし、光吉氏を編集長に据え、松森氏が編集実務を担当した。昭和24年4月、その第1号を、原弘の題字で、三万部発行した。けれど売行きはパッとせず、やがて二万部に落としたが、一年足らずでコミックス社も倒産してしまう。劇画時代はまだ遠く、『スーパーマン』は早すぎた登場だった、と氏は語っている。光吉氏はその後、児童文学の執筆者として活躍する。
このコミックス社の印刷を引受けていた光村印刷の光村利雄氏が、戦前から美術出版もやっていた銀座の大画商、石原求龍堂の石原龍一氏を連れてきて、後継出版社の社長とし、三層出版社と名づけられた。三層出版社では製紙会社のカレンダーや学校の図画の副読本(小学一年〜中学三年)、『図画工作』も作り、松森氏が表紙を描いたりしている。
ここでも再び意外なエピソードが語られる。一人は前述の山本夏彦氏との再会であり、山本氏は戦前から石原氏の求龍堂で仕事をしており、その後独立したが、戦後また一緒に仕事をしていた時期のようだ。山本氏の有名な工作社(昭26年〜)以前の仕事歴はあまり知られていないのではないか。 |