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55.後藤書店で最後に手に入れた本と雑誌から ─ 『私のコスモポリタン日記』と『校正往来』 ─ |
本文は広告も入れて48頁。頁を子持ち罫で囲み、活字の組み方も二段、三段、四段と変化に富む。著名な文人が寄稿した短い校正や誤植についてのエピソードや事例を数多く載せ、各々に神代の解説も付けている。せっかくの機会だから、独り占めせずに(?)ここで内容を若干紹介しておこう。 まず、高島米峰(明治39年〜昭和9年。仏教家で随筆家。晩年には東洋大学学長を勤めた人だが、壮年期には30年程、丙牛出版社を経営していた)の「南條文雄博士の校正癖」から。 吉野作造は「第四階級と第三階級」という短文を寄せ、前年に『中央公論』に寄稿した巻頭論文「普通選挙論」は名編集長、滝田樗陰君が口述筆記してくれたものだが、出来上った雑誌を見ると、「プロレタリア」の意が「第三階級」となっている。自分は明確に「第四階級」と話したのだが、考えてみると、滝田君がフランス革命時代の平民を「第三階級」と呼んでいたのを記憶していて、早合点して親切心から直してくれたらしい。しかし、それでは論旨が徹底せず、論争にもなって困惑した、と書いている。これはよくある編集者の勇み足であり、本来は著者に確認すべき事例であろう。 |
さらに新村出の寄稿では、「単語誌」という題目で、「単語の起源と沿革」と原稿に書いて出した文句が掲載紙を見ると、三号活字位の大きさで「沿革」が「鉛筆」となっていたので、微苦笑しつつ早速神代氏を想起したという。これは達筆を読みまちがったのだろう。「そこで記念に鉛筆で原稿を書いて差出さうと思つたのでしたが、やつぱりペンで書きました。」と新村氏らしい、しゃれた文章で締め括っている。 田中貢太郎の短篇集『岡崎巷談』にこうある。「大正十年四月のことであつた。江州安土の城の大奥にあつた梅の間へ、春若と云ふ信長の近侍がやつて来た。」と。記していないが、正解は天正、であろう。これは目立つので著者も出版社も困惑したにちがいない。 最後にコラムの片隅に載っていた、明治36年金尾文淵堂刊の発禁詩集『社会主義詩集』で名高い児玉花外の「天の川と神代君」と題する詩が面白いので引用しておこう。神代氏もさすがにおもはゆいのか、四段組の最下欄左端に収録している。 英国の詩人バイロンは 二人は明治文学研究の縁で親しかったのだろうか。 |
巻末のシンプルな宣伝文のみの広告頁には、岩波書店や新潮社、春陽堂(=『校正の研究』を出版)、日本評論社(神代も編輯に参加した『明治文化全集』の版元)などの他に、大阪の高尾書店や柳屋画廊も載せているのが面白い。高尾書店は以前、この連載で一寸書いたように、神代が借金に追われて大阪へ逃れ、高尾彦四郎氏宅に一週間も寝泊りさせてもらったというエピソードもある位、交流が密だったからだろう。『書物往来』も店で販売していた。 |
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