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古書往来
53.作家の名前コンプレックスあれこれ

今度は女性作家のエッセイからも紹介しよう。
以前、百円均一本コーナーで入手した瀬戸内晴美のエッセイ集『放浪について』(昭50、講談社文庫)に出てくるものだ。私は瀬戸内さんの小説は女性作家の評伝小説などわずかしか読んでいないが、エッセイ集は自伝的内容や他の作家との交友記、追悼記なども多く含まれているので、割に読んでいる。本書中の「名前雑感」は次のように始まっている。

「放浪について」カバー
「放浪について」カバー

「岡本かの子は自分の名前を気にいっていて、トラやクマではなく、よくぞかの子などという可愛らしく美しい名を親はつけて下されたものだと感謝していた。」と。それで小説「雛妓」には主人公と副主人公に同時に「かの子」とつけた位である。その由来は、生家の大貫家の何代か前にいた「おカノ婆さん」という女丈夫にちなんでつけられたという。

一方、瀬戸内さんは若い頃は晴美が男性名に見られたことが時にあるようだ。「実は私の名前は父が男の子を欲しがって、考えておいた名前だったという。」と書かれている。彼女が田村俊子賞をもらう前(つまり、まだ無名の頃)、佐多稲子さんの御宅で初めて草野心平氏に逢った際、目の前にいるのに「瀬戸内くんていうのは今日は来ないの?」と尋ねられ、彼女と分って一座で大笑いしたという愉快なエピソードを披露している。また、本を贈ってもらったので他意はないのだが、有吉佐和子さんのベストセラー『不信のとき』を読んだら、ハルミというあやしげなヌードモデルの名前に使われていた、とも。彼女は、一昔前は「晴美」は男の名前だと考えられていたが、今は銀座の女給の名のように見えてくるのだから「人間の習慣とか感覚の変遷というのもいたって頼りないものだ」と達観している。そして最後に、読者も次第に固有名詞に神経質でなくなっていくので、「八十になっても瀬戸内晴美なんて名前でいるのはさぞ恥かしかろうなど取越苦労もする必要はないのかもしれない。」と結んでいる。さすがに、細事にこだわらない瀬戸内さんらしい。その後、出家され「寂聴」となられたので、名前にわずらわされることもなくなったわけだが。


「月魚」カバー
「月魚」カバー

最後に、現在活躍中の若い女性作家の発言も取りあげておこう。少し前、直木賞作家、三浦しをんさんの初期の小説『月魚』(平成16、角川文庫)が、古本屋が舞台になった物語と聞いて、新刊書店やブックオフを探し回ったが、なかなか見つからなかった。ある日、三宮の古本屋で偶然見つけて喜んで買って帰った。

これは幼い頃からの親友同士である若者二人が、各々二代目の古本屋とせどり屋になって仕事で協力しあうと同時に、二人のつきあいが微妙な同性愛的関係であることも暗示している物語で、その透明で簡潔な文体に感心し、最後まで引きこまれた。三浦さんはかつてブックオフのような店でアルバイトをしていたらしく、古本屋の裏事情にもとても詳しい(例えば、本書での古本の宅買いの様子など)また、本からの知識と思うが、金尾文淵堂刊の児玉花外の幻の発禁本『社会主義詩集』を思わせる掘出し本の話も巧みに物語に取り入れている。

彼女の爆裂エッセイ『極め道』(きわめみち)(2007年、光文社文庫)を新刊で見つけたので、早速面白く読んだ。これは以前、ウェブマガジンに連載したのをまとめたものだ。本音のトーク満載である。
本書中の「カバのカバカバ(以下、長いので省略)」で、彼女はこう書いている。
「やはり名前って重要だわ。人格を成立させる要素の中で、顔と同じくらい重要よ。たとえば私はものすごく平凡な顔だ。でも私の名前しか知らない人は、「色素が薄くて目がパッチリしてる可憐な女の子」をイメージして、大変期待して顔を見に来る。そして大層がっかりして帰って行く。」と。それで、名前負け(?)のコンプレックスをもつようになった。
「しをん」の表の由来は「紫苑の花が咲く頃(秋)に生まれたから。紫苑みたいにまっすぐ素直に育つように」つけられた。しかし、実は裏の由来もあって、石川淳の『紫苑物語』から採ったらしい。とすれば相当な文学好きの両親である。この物語は彼女によると、「バッサバッサと人を殺して、その血が染みたところから紫苑がはえました」というもの。しかも、彼女の調べでは紫苑の別名は「鬼の醜草(しこぐさ)」といい、両親はそれを知らなかったと憤慨している。近頃の小学校では必ず「名前の由来をうちの人に聞いておきましょう」という授業があるらしい。それで、三浦さんは親が名前をつける際の注意点の一つに、子供が答えやすいような由来をちゃんと考えておいてあげること、を挙げている。
私の名前は、父親が輝一で、それを継ぐものとして輝次と名づけられたので、まことに分りやすい由来だが、全くもって自己中心的な思いを押しつけられたものだ。まっ、いいか。私もわずかだが文章を書く身、もっと早く気のきいたペンネームでもつければよかったのだが、今となっては手おくれである。(たとえ、改名したところで、文才がともなわない!)

以上、名前にこだわる作家たちの感慨をただ列挙したにすぎないが、探せばまだまだ見つかるだろう。私はこのようなエッセイを集めてアンソロジーにまとめたら面白いと思うのだが、編集者の皆さん、如何でしょう?

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