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51.木下夕爾と『春燈』の人たち |
『春燈』を読んだもう一つの収穫もぜひ記しておきたい。 ※ この雑誌については、すでに矢部登氏や林哲夫氏が紹介しているので詳細は省く。 |
「帖面」表紙 |
高橋鏡太郎 |
冒頭には、昭和28年に新宿「ボルガ」にて写したという帽子をかぶった高橋氏の人なつこそうな笑顔の写真がある。本文は、まず山岸外史と牧暎という詩人が短い追悼エッセイを寄せており、他は氏の詩14篇が収録されている。私は急いで読んでみたが、どれも平易な格調高いことばで、貧しい生活の中、妻やわが子、自然などを優しい心情で唱ったものばかりで、たちまち魅了された。せっかくの機会なので、最初の作品だけ、引用させていただこう。 |
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『帖面』の後記によれば、氏は「徒食と暴飲の果ていたましい事故死をとげてしまった」が「この詩人の稀な幸福は生前戦後に汎って多くの良き友人知己に恵まれていた事であろう。」とある。氏は上林暁の「諷詠詩人」吉屋信子の「月から落ちた男」に描かれているともいう。そうだったのか。前者は以前、読んだ気もするが、今、どうも内容を思い出せない。どちらも探してぜひ読んでみたいものだ。 最後に、肝心の、『春燈』に表れる夕爾氏のことにもふれねばならない。随筆の方は見られなかったが、うれしかったのは万太郎に高く評価されたという氏の初期の句が、入手したうちの三冊の「春燈雑詠」の巻頭に見出せたことである。この中に句碑にもなった「家々や菜の花いろの灯をともし」も含まれていた。又23年4月号を見ると、編集人の安住敦氏が「柿ノ木坂雑筆2」で、句作上の好(強)敵手として、木下夕爾と高橋鏡太郎(!)をあげ、とくに前者について「およそ俳句をたしなむ詩人は多いが、その大部分は文字通りたしなみ程度で本物ではない。」ところが夕爾氏の場合、「彼は、詩をつくるときと俳句をつくるときと態度を異にしない。彼の俳句には彼の詩人としてのすぐれた資質が十分うち出されている」と礼讃している。ここでは安住氏が掲げた夕爾氏の七句から私の好みで三句を選んで再び引用しておこう。安住氏は、夕爾氏の全句集も編集している。 麦の芽の鏡にうつる家居かな |
(追記) 干菜吊るまこと信濃の空高く どちらも、のどかな風景があざやかに目に浮ぶような作品である。高橋氏の句集も読みたいものだ。 |
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