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古書往来
50.三国一朗の戯曲と青木書店のこと

今回はネタも切れてきたので、少し軽い話題でお茶を濁させていただこう。
長年、古本漁りをしていると、時たま、今は別の分野で活躍している著者たちの若き日の意外な作品や著作に出会って驚くことがある。例えば著名な学者の方が小説を書いていたり、映画監督が詩集を出していたり……等々である。私もこの連載でその幾つかを紹介した。
最近も書友、津田京一郎氏のお便りによれば、氏も長年の愛読者である福原麟太郎の著作は殆んど蒐集されているが、最近、山本善行氏の古本日記を見て、福原が23、24歳の頃に小説を三篇書いたことがあるのを知り、ネットで検索して、それらが大正6〜7年に『SNAKE』という同人誌に載っていることを確認したという。(その後、小説も入手し、私にも贈って下さった。)又同じく小野原道雄氏も最近、古本展でドイツ文学者、手塚富雄の出した『帰り行くひと』(昭23、育生社)という小説集を手に入れたと伺った。そういえば、私も以前、『古本が古本を呼ぶ』の中で、国文学者の坂本浩が若い頃出した浪漫的な小説集『時ぞ待たるる』(昭14)を見つけて読み、感銘を受けたので、紹介したことがある。このように、青春の季節、本格的な学者の道に進むまでに、文学青年ならいろんな試行錯誤もあり、試みに小説を生み出した各々の人生のドラマもあったことが伺われる。

「歴程」表紙
「歴程」表紙

最近も、美術古書専門のギャラリー・ヒロオカで『歴程』(1981年3月、269号)が目に付いたので意外に思い、表紙にある目次を見てやっと納得した。「土方定一追悼」号だったからである。それにしても、なぜ『歴程』に土方氏の特集が?と詳細が分らず、執筆者も草野心平、山本太郎、本多秋五など錚々たる人たちが書いていて面白そうなので、買って帰った。

早速、寝床で何げなく読んでみると、各々の追悼文になかなかの迫力があって引きこまれ、数日かけて殆んど読んでしまった。土方氏の美術評論家としての数々の業績は周知のことだが、それよりも氏の強烈な個性あふれる人間性 ── 直情の人で、好みと信念が強く、人を批判するときは狂暴で容赦がなかったが、反面、人に優しく、よくワッハッハッと哄笑する人でもあった、といった印象を多くの人が共通して懐かしがっているのになぜか引きつけられた。もっとも、私なら編集者としてつきあうのは遠慮させてもらいたいタイプの人ではあるが。


ところで、巻末の年譜によれば、氏は水戸高校在学中、同人誌に詩を発表。18歳の折(大正11年)、草野心平を知り、『銅鑼』の同人になっている。23歳の時、東大文学部美術史学科に入学するが、翌年、ギニョールやマリオネットを作り、「テアトル・クララ」を仲間と結成し、紀伊國屋の二階で上演したりしている。昭和10年には、『歴程』が創刊され、同人八人の一人になる、とある。その後は本格的に美術研究の道に進むのだが、若い頃は詩を書いていたのだ! 中でも強く印象に残ったのは、鳥見迅彦という人が「とことこが来たという」なる一文を寄せ、氏が昭和11〜12年の頃、草野心平からじかに土方氏のこの同題の四行詩の存在を教わったと回想していることだ、ここに引用しておこう。(なお、あきつ書店目録によれば、昭和53年に同題の詩集(?)も刊行されている。)

「とことこが来たという
とことこが朝といっしょに来たという
まんぼのように眠ったらとことこで眼がさめたという
なんだかうれしいという」

(「とことこ」はポンポン蒸気、「まんぼ」は寝坊な伝説のある魚のことをいう。)
氏は土方氏の美術方面の大きな社会的貢献はそれなりによろこばしいことだが、自分はこの小さな抒情詩を何にもまして懐かしむ者だ、と書いている。同学の河北倫明氏も「氏の本質は、つきつめると、やっぱり詩人であったといった方がいちばん当ると私は思っている」と言い、「日常生活も含めて、もし功罪があったとすれば、この純な詩人性がはらむ当然の功罪だった」と述懐している。巻頭には、土方氏の、自分の息子の誕生一、二日目を描いたやさしさあふれる詩や「高村さん」「心平よ」と題する詩が掲げられていて、心に残る。しかし、土方氏については、私は著作もわずかしか読んでいないので、これ以上書くのは控えよう。

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