ところで、巻末の年譜によれば、氏は水戸高校在学中、同人誌に詩を発表。18歳の折(大正11年)、草野心平を知り、『銅鑼』の同人になっている。23歳の時、東大文学部美術史学科に入学するが、翌年、ギニョールやマリオネットを作り、「テアトル・クララ」を仲間と結成し、紀伊國屋の二階で上演したりしている。昭和10年には、『歴程』が創刊され、同人八人の一人になる、とある。その後は本格的に美術研究の道に進むのだが、若い頃は詩を書いていたのだ! 中でも強く印象に残ったのは、鳥見迅彦という人が「とことこが来たという」なる一文を寄せ、氏が昭和11〜12年の頃、草野心平からじかに土方氏のこの同題の四行詩の存在を教わったと回想していることだ、ここに引用しておこう。(なお、あきつ書店目録によれば、昭和53年に同題の詩集(?)も刊行されている。)
「とことこが来たという
とことこが朝といっしょに来たという
まんぼのように眠ったらとことこで眼がさめたという
なんだかうれしいという」
(「とことこ」はポンポン蒸気、「まんぼ」は寝坊な伝説のある魚のことをいう。)
氏は土方氏の美術方面の大きな社会的貢献はそれなりによろこばしいことだが、自分はこの小さな抒情詩を何にもまして懐かしむ者だ、と書いている。同学の河北倫明氏も「氏の本質は、つきつめると、やっぱり詩人であったといった方がいちばん当ると私は思っている」と言い、「日常生活も含めて、もし功罪があったとすれば、この純な詩人性がはらむ当然の功罪だった」と述懐している。巻頭には、土方氏の、自分の息子の誕生一、二日目を描いたやさしさあふれる詩や「高村さん」「心平よ」と題する詩が掲げられていて、心に残る。しかし、土方氏については、私は著作もわずかしか読んでいないので、これ以上書くのは控えよう。 |