大学を卒業した戸塚珠造は新聞広告をたよりに仕事を探すが、一社目も二社目も、入社したものの、上司や会社と肌が合わず、すぐ退社してしまう。大正10年の秋、退社したその足で銀座通りを歩いていると、立看板があり「新発明邦文モノタイプ技術者養成。/三ヵ月卒業。就職先確実に紹介。/養成中は日給を支給する」との文字が目に飛びこんでくる。すぐ、そこの門を叩き、珠造は三ヶ月で一通り機械の扱いに慣れ、東京から120キロ程離れたM市の、個人経営の小さな印刷所に雇われて行く。そこは活版と石版の工員、五、六人が忙しく働いている工場だった。彼は「珠やん」の愛称で呼ばれ、同僚工員とのつきあいが始まる。午後三時のお茶の時間には、「活字ケースを並べた『馬』という棚(筆者:これは初耳)と棚との間の狭い板の間に」皆で尻をおろして勝手な雑談を交した。そうした職工の中でも一段と変った人物が月ヶ瀬老人だった。年の頃はもう六十に近く、「お能に出てくる痩男の仮面にそっくりの表情」だが、仕事の腕前は水際立ってあざやかで「ステッキ(植字器)を手にして活字ととり組んでいる姿は実に見事であった。」4、50年も東京の一流工場で文字の間を泳ぎまわっていたという老人の、漢字についての知識は底知れぬものがあり、何でも知っていた。珠造は「見も知らぬ変った漢字に出くわすたび毎に、その読み方や、一点一画どれが正しいか、俗字か略字か、宛て字か別字か」などについて尋ねると、ニコニコと懇切丁寧に教えてくれるのだ。ここらあたり、昔からの叩きあげのヴェテラン活版職人の面目躍如たる描写が続く。
ある秋の休日、珠造は久しぶりに屋敷町の方に散歩に出かけたが、小さな店屋の一つにみすぼらしげな古道具屋があり、眺めまわすと「がらくたの中ほどに小型の古い和本が二、三冊、重ねてあるのに目をとめた。」手に取って頁を繰ると、「何やら一面に碁盤の筋目が引いてあって、所々に漢字が散らしてある。」何の本だろう、と思うが、題名を記した表紙のはり紙もとっくの昔に失くなっている。折り目の柱には『経世声音図』と見える。彼の好奇心はむくむくと湧きあがり、とにかく買うことに決め、十銭で買って帰った。それ以来、図書館や知人、歴史のある古本屋などに当って調べ、ようやく中国の宋時代の漢字の音を詳しく示したものだという見当はついた。しかし内容はまだ皆目分らず、珠造はこの本の謎を一生の仕事にしても解きほぐしたいと思う。 |