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古書往来
39.国文学者の小説・随筆を私家版で読む

「学問の入口」表紙
「学問の入口」表紙

さて、本書は創作『学問の入口』『蛙の歌』二篇、長篇の自伝エッセイ「田園の追憶」、それに専門の学問を一般向けに紹介した「韻鏡の話」から成っている。表紙には、氏が初めて入手したという『韻鏡』の図版を掲げている。この中で一番読ませるのが、やはり書名にもなった「学問の入口」である。氏の実体験に基づいて、専門研究のきっかけとなった和本との出会いとその後の歩みを小説として描いたものだ。あらすじを紹介しよう。

大学を卒業した戸塚珠造は新聞広告をたよりに仕事を探すが、一社目も二社目も、入社したものの、上司や会社と肌が合わず、すぐ退社してしまう。大正10年の秋、退社したその足で銀座通りを歩いていると、立看板があり「新発明邦文モノタイプ技術者養成。/三ヵ月卒業。就職先確実に紹介。/養成中は日給を支給する」との文字が目に飛びこんでくる。すぐ、そこの門を叩き、珠造は三ヶ月で一通り機械の扱いに慣れ、東京から120キロ程離れたM市の、個人経営の小さな印刷所に雇われて行く。そこは活版と石版の工員、五、六人が忙しく働いている工場だった。彼は「珠やん」の愛称で呼ばれ、同僚工員とのつきあいが始まる。午後三時のお茶の時間には、「活字ケースを並べた『馬』という棚(筆者:これは初耳)と棚との間の狭い板の間に」皆で尻をおろして勝手な雑談を交した。そうした職工の中でも一段と変った人物が月ヶ瀬老人だった。年の頃はもう六十に近く、「お能に出てくる痩男の仮面にそっくりの表情」だが、仕事の腕前は水際立ってあざやかで「ステッキ(植字器)を手にして活字ととり組んでいる姿は実に見事であった。」4、50年も東京の一流工場で文字の間を泳ぎまわっていたという老人の、漢字についての知識は底知れぬものがあり、何でも知っていた。珠造は「見も知らぬ変った漢字に出くわすたび毎に、その読み方や、一点一画どれが正しいか、俗字か略字か、宛て字か別字か」などについて尋ねると、ニコニコと懇切丁寧に教えてくれるのだ。ここらあたり、昔からの叩きあげのヴェテラン活版職人の面目躍如たる描写が続く。

ある秋の休日、珠造は久しぶりに屋敷町の方に散歩に出かけたが、小さな店屋の一つにみすぼらしげな古道具屋があり、眺めまわすと「がらくたの中ほどに小型の古い和本が二、三冊、重ねてあるのに目をとめた。」手に取って頁を繰ると、「何やら一面に碁盤の筋目が引いてあって、所々に漢字が散らしてある。」何の本だろう、と思うが、題名を記した表紙のはり紙もとっくの昔に失くなっている。折り目の柱には『経世声音図』と見える。彼の好奇心はむくむくと湧きあがり、とにかく買うことに決め、十銭で買って帰った。それ以来、図書館や知人、歴史のある古本屋などに当って調べ、ようやく中国の宋時代の漢字の音を詳しく示したものだという見当はついた。しかし内容はまだ皆目分らず、珠造はこの本の謎を一生の仕事にしても解きほぐしたいと思う。


翌年、店の経営状態も芳しくなく、彼は教員になる道を探り、検定試験を受けるが、失敗してしまう。その頃、店主に相談されて、兵隊の除隊記念の土産もの用に、皇族関係の読み物を書いてくれと頼まれ、20頁程の文章を書き上げる。(知識と文才があるのを見込まれたのだろう)東京での出版の相談もまとまり、浜松の料理屋で二人で祝杯をあげようとしたその瞬間に、あの関東大震災が起り、命からがら逃げ帰った。この際、印刷所も思いきって機械を同業者に売り払い、解散してしまう。その後彼は代用教員となり、検定試験にも合格。教員としての生活を歩むが、その間にも『経世声音図』の研究を怠らず、学術雑誌にも度々論文を発表するようになる。それが機縁になり、ある私立大学の講師に招かれる。

最後は、今は私大の漢文学研究室の教授に納まっている珠造が研究室で往時を偲ぶところで終っている。印刷所の仲間や月ヶ瀬老人、店主夫婦らのその後に思いを馳せ、独りつぶやく。「おれは、一体、いつ、どこで仲間からはぐれて見知らぬ世界に入り込んでしまったのだろう。」「── そうだ、あの屋敷町へ散歩に出かけた時だ。あの古道具屋の店先で汚ない古本に手をのばした瞬間だ。あの本がおれをかどわかしたんだ。あれは、やっぱり魔性の書物だったのだ。」と。「戸塚博士は研究室で一人になると、自分を学問の塀の内へ誘惑した ─ 今は開かぬ「くぐり戸」のことを、幾度も思い浮かべては、長い間身じろぎもしなかった。」
まるで、良質のイギリス文芸映画のラストシーンのように、しみじみとした余韻が残る。私は、三沢氏の学問のことは難しくて未だによく分らないが、この小説で、当時の印刷所内部の様子や偶然、古道具屋で出会った和本が氏のその後の学問人生のきっかけになったことなど、とても面白く読んだ。ちなみに、古道具屋や骨董市に和本や歴史史料物が出て、その中にたまに掘出し品が見つかることは、知人の博物館学芸員の方もよく言っていた。

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