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37.大阪朝日会館長、十河巌の本と、前田藤四郎展と |
さて、神戸へ出かけた翌日(ヒマですなぁ)、私は大阪市近代美術館建設準備室主任学芸員、橋爪節也氏が企画した「前田藤四郎展」を心斎橋分室に見に出かけた。前田氏の作品は、今まで断片的には見たことがあるが、今回のような、生涯にわたる仕事を一望のもとに眺められる展示は私には初めてだった。 |
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「前田藤四郎展 図録」表紙 (東方出版) |
会場で橋爪氏から有難くいただいた図録の年譜によると、前田氏は明治37年、明石市に生まれ、伊丹中学を経て、神戸高商(現・神戸大)へ入学。卒業して大阪・松坂屋宣伝部に入る。兵役後、松坂屋を退社し、昭和4年(25歳)、義兄経営の広告宣伝を扱う印刷所、青雲社(淡路町)に入り、グラフィックデザインを担当する。昭和14年(34歳)、印刷所をやめ、主に塩野義製薬のデザインを企画、制作、その後独立する。 |
戦前、戦後の版画家としての活躍はよく知られているので省略するが、私が不勉強で知らなかったのは、昭和45年以後、万博後の美術館を国立現代美術館として推進する協議会の代表委員として大へん苦労したことだ。また、私が創元社在社中に、読売新聞に連載された岡部伊都子さんの随筆集『花のすがた』や『暮らしのこころ』の挿絵を担当し、出版されたのを覚えている。その繊細な質感をもつ「拓版画」の世界には魅了される。(原画の一部が展示されていた。)平成2年、82歳で亡くなった。 |
展示作品の中で、最晩年の、ユーモアと機知に富むシュールな世界も楽しく面白いが、私がもっとも引きつけられたのは、戦前、初期のリノカットの版画小品群である。日本でもかなり早く、海外のエルンストのシュールリアリズム画の影響を受けた前田は、独自の技法で、何とも味のある色彩の、コラージュ風の不思議な世界を現出している。図録に収録された同館学芸員、清原佐知子さんの論文「前田藤四郎とマックス・エルンスト:初期における受容をめぐって」には、大正後期から昭和初期にかけての、外国のシュールリアリズムの日本への影響の過程が実証的に追跡されていて、大へん興味深いものだ。 |
前田藤四郎 「美しきエスプリ」1931年(昭和6) 大阪府立現代美術センター蔵 (前田藤四郎展図録より) |
これによると、前田が大正12年、神戸高商に入学した頃、東京では神原泰や村山知義、中原実らが中心となり、前衛芸術団体「アクション」や「マヴォ」「三科」に拠って「新興美術運動」を展開しており、神戸にもその当事者である岡本唐貴と浅野孟府が移住してきて、三宮の「カフェ・ガス」を拠点に活動していた。(この連載の、林喜芳の本や前回の坂本遼の詩集にも関連している。)当時、神戸高商も原田の森の西端に位置し、関西学院大の近くにあったため、前田は「わたしの履歴書」の中で「この神戸高商のころは学外にも友人ができた。詩人の竹中郁、画家の小磯良平の両君は通学のさいによく一緒になり、たがいに夢多い話をするようになったのだ」と回想している。関学大生だった竹中も若い頃は画家志望だったから、前田とはよく話があったことだろう。それにしても、同時代の芸術家同士のつながりをまた一つ知ったことになる。 |
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