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34.詩人、黄瀛(こうえい)と日本の文学者たち

実はもう二つ、私の目にした貴重な文献がある。その一つは、二、三年前?(どうもボケて定かでないが)黄瀛が数度目の来日の際、日経新聞の文化欄に、長文のエッセイを寄せていたものだ。氏の今日までの変転きわまりない人生の歩みと日本とのかかわりを折り目正しい日本語で綴り、確か現在、自伝も執筆中、とあったように覚えている。(これはぜひ日本でも出版してほしいものだ。)読んですぐ切り抜き、スクラップ帖に保存したように思うのだが、執筆中にいくら探しても見つからなかった。わが身の整理のまずさを嘆くばかりである。

もう一つは脱稿直後、なないろ文庫ふしぎ堂の目録に『人間』昭和21年7月号(黄瀛「心平への戯れ書」)とあったので、「これは!」と思ってあわてて注文した。(どうして、こう、原稿関連の資料がタイミングよく目につくのだろうか。)
これは随筆かと思っていたが、運良く届いたのを見ると、詩であった。全文、引用したいところだが、二頁にわたるわりに長いものなので、一部を紹介するに留めよう。最初に「詩をかかない人が詩をかかうとしてゐる/夜ふけぐつすりねむられるのにねないでゐる」と始まり、二行後に「ねむられぬ草野はどうしてゐるだろう」と続く。中程では「ある時代のダイナミックなものがゴンとオレを打つ」とあり、「今別れたばかりの草野がはっきりと見える」「草野よ!/オレがねむらないで君をねむらせたいものだ」という詩句もある。
前述のエッセイが昭和21年6月執筆で、この『人間』が同年の7月号だから、おそらく草野との再会直後に書かれたものだろう。黄瀛は長い戦争中、詩を書く意欲を失っていたようだが、草野に再会して、詩への情熱を再びかきたてられたのかもしれない。引揚前の草野の不遇な生活への深い思いやりが感じられる詩だ。

それにしても、戦後すぐの混乱期に中国在の黄瀛に執筆依頼した編集者がいたとは驚きである。(おそらく編集長、木村徳三だろう。)それとも黄瀛が自身で投稿したのだろうか?いずれにせよ、黄瀛が戦前の文学者たちに強烈なインパクトを与え、未だに忘れられぬ存在であったことがこれでも、よく分ろうではないか。

* * *

(追記)
朝日新聞(平17、10・17)に再び王敏さんの「重慶 ─ 教育にかける天狗の町」なる見出しの論説が載った。今回は中国の大都市、重慶と日本のかかわりを述べたもので、その歴史と文化を紹介し、さらに教育都市としての重慶を紹介している。公立大学が25校もあり、その一つ、黄瀛が教えていた四川外語学院日本語学部は今年で30周年を迎え、記念日の9月24日に、黄瀛の日本語の詩碑の除幕式があったという。合わせて、学内の国際会議場の舞台で初めて、日本の茶道と華道が披露された。
その一文の冒頭近くの一節に黄瀛は「7月18日の当コラムで紹介して間もなく、98歳で亡くなった」とあり、私は一瞬、「えっ?」と目を疑った。黄瀛さんは何となく、まだまだもっと長生きされるだろうと内心で思っていたからだ。お元気だったなら、その記念行事を大へん喜ばれ、日本を懐かしんだことだろう。

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