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古書往来
33.文化の器(うつわ)としての建物
─ 富士映劇と朝日会館と ─

「神戸わたしの映画館」表紙
「神戸わたしの映画館」表紙

今年の新年早々に出かけた阪神デパートの古本展の片隅で、浅田修一著『神戸わたしの映画館』(冬鵲房、1985年)を見つけ、うれしくなった。以前、この連載で紹介したことのある、今はもうない神戸の垂水にあった小出版社の本だからだ。120頁程の薄い本。カバーの著者自身が描いた映画館内のイラスト・スケッチにどうも見覚えがある。中の目次を見ると、果たせるかな、第七話に「富士映劇」とあるではないか。とたんにああ、あそこだと憶い出し、懐かしさがこみあげてきた。

ここは、私が結婚するまで住んでいた実家のあった灘区大石南町を川に沿って北に上がり、突き当った国道筋を少し東に歩いた所にある映画館だ。小学校高学年の頃、誕生日に家で一寸したごちそうを食べた後、招待した友達と一緒に、特別に小遣いをもらって富士映劇に出かけ、中村錦之介や里見浩太朗、東千代之介らの出演する血涌き肉踊る「紅孔雀」や「里見八犬伝」などを夢中になって観たものだ。その後も嵐寛の鞍馬天狗シリーズや「明治天皇と日露大戦争」も見た記憶がある。いわば私の映画体験の原点とも言える建物だ。イラストのように、二階はスクリーンを囲む鉄柵に沿って椅子があり、一階奥の便所からアンモニアの臭いがかすかに漂ってくる空間だった。
後年、偶然近くを通った折見ると、いつのまにかピンク映画専門館に変っていた。これも時代の流れで仕方ないだろう。

本書は、1938年生れで神戸大文学部を卒業し、足に障害をもちながら型破りの高校の国語教師をしている浅田氏が、自分のよく通う神戸の映画館やそこで観た映画、一緒に観た人たちのことを十一話に語ったもので、各々の映画館の写真や氏が描いた館内部のスケッチもふんだんに添えられ、目次や中トビラのレイアウトも気が効いていて、楽しく読める。
若い日、安保闘争にも参加した人のせいか、どこか内面が屈折していて、高級な芸術映画はもちろん、B級映画ややくざ映画、ピンク映画まで幅広く見ている。氏はあとがきで、「あの映画館の闇というものは、単に技術的な必要性というにとどまらず、なかなか味のある空間に違いない。私達が持ち込んだもろもろのものは、あの闇の中で、ひととき癒され、翻弄され、やがて一つの形をとる。」と書いている。また本文でも、一緒に観に行った友人に「映画館という箱は、銭箱とは違うのや。れっきとした文化の箱や。」としゃべっている。とても共感する言葉である。

本書を書いた昭和62年の時点で、神戸の映画館は昭和38年頃72館あったのが、35館に減少したそうだ。ここで描かれた11館のうち、現在も営業しているのは何館だろうか。それはともかく、映画についての評論やエッセイ集は沢山出ているが、映画について書かれた本は意外に少なく、貴重である。
(なお、浅田氏は冬鵲房の代表者三人のうちの一人でもある。1991年にも、同じ冬鵲房より『映画のあとで』という面白い本を出している。)

以前の連載でも書いたが、文化の装置(箱)としての建築空間は一度失われてしまえば、しだいに人々から忘れられてしまう。とくに映画館や劇場、文化会館、出版社、書店、古本屋などは、そこに出入りして体験した人々が詳しく記録しておかないと、歴史の闇にいつのまにか埋もれてしまう。

そういう意味で、これは新刊書店で見つけた本だが、もう一冊紹介しよう。
新大阪駅の地下街にある「dan」は仕入れにかなり目利きの人がいるとみえて、なかなかユニークな棚構成をしており、読書人好みの人文科学書やビジュアル・デザイン・アート系の本の品揃えがいつも充実している。
その中でふと背のタイトルで目に付いたのが、大判、100頁位の『なつかしの朝日会館』(LEVEL刊、平成16年)である。中をのぞき、面白そうだったが、この会館は大正15年に開館し昭和37年には閉館というから、私が昭和39年に大阪外大に入学し初めて大阪の土地を踏んだ頃はすでになく、全く実体験がない。

「なつかしの朝日会館」表紙
「なつかしの朝日会館」表紙

それで、すぐには買わなかったのだが、その直後、坪内祐三『まぼろしの大阪』(ぴあ刊)を拾い読みしていたら、所収の谷沢永一氏との対談中に、この朝日会館のことが一寸出てきた。谷沢氏は、おそらく貧乏学生の頃、月に二回位朝日会館でレコード鑑賞会があり、舞台の真中に電蓄を置いて解説付きで洋楽を五十銭で聞けて嬉しかったという。朝日会館は何といっても大阪の文化の中心で、文化を作りたいという奉仕の精神があった、とまで礼讃している。
これを読んで、私はにわかに思い直した。私にしても、朝日会館のあった梅田の堂島近辺は、大学時代や社会人になってからも、毎日ホールやサンケイホールでよく開かれた労演の新劇を見に行ったものだし、今はジュンク堂や高尾書店もあり、大阪の一大文化ゾーンという印象が強い。この本は小部数出版のようだし、売り切れては大変と、新大阪へ急いで買いに走った。

本書によれば、朝日会館は中之島の朝日ビルの西隣りにあった、新聞の印刷インクを塗った黒い建物で、常に内外の一流の音楽、演劇、映画が上演されていた。その舞台装置・美術を担当していた故・加納正良氏が残した、主に戦後の舞台を模写した原画やプログラムの原画などを多数収録するとともに、加納氏とつきあいのあった人々が当時の会館の思い出を各々語ったエッセイも入っている。その中には大阪学で有名な大谷晃一氏や演出家の岩田直二氏、漫画家の河村立司氏なども書いている。原画はモダンで色彩も明るく、楽しい雰囲気のものが多い。
大谷氏はこう書き出している。「あのころ、それは昭和の初めである。中之島の渡辺橋畔に黒くえびえる朝日会館は大阪の近代文化の中心であった。ガスビルとともに大阪のモダニズムのシンボルでもあった。隣接の朝日ビルにあった喫茶室や本屋、それに階上のアラスカとともに文化ゾーンをつくっていた。」と。
舞台美術家の田中昭三氏は、「・・・黒いモダーンなビル、その五階に朝日会館があって、正面玄関からエレベーターもあったが、私たちは通ぶって堂島河畔側の狭い扉から急な階段をオリエント風の彫刻のある手摺の親柱に取りすがるように何度も曲ってロビイに辿り着く。」と回想する。中は広く、舞台の左右に大きな円柱が二本あった、と元劇団員の早川洋一氏は証言している。
内部はエジプト式で、この装飾意匠は京大の考古学者、浜田青陵の助言を得て制作されたという(『モダン都市大阪』図録解説)又昭和25,26年頃、会館でアルバイトをしていた島本貴子さんは「席に着くと、最初に目に入るのは、吉原治良さん制作の『どん帳』でした。踊るような直線と曲線の美。ピカソを思わせるカラフルなものです。」と語る。
このように各人の断片的な思い出をコラージュしてゆくと、しだいに会館内部の空間のイメージが彷彿としてくる。昭和22年、早くも朝日会館でドフトエフスキー『罪と罰』を演出した岩田直二氏は「文化に餓えていた人達が上演に殺到しました。五階の会場入口から階段をずっと下までつながり通路に長い列をつくりました。」と回想している。


さらに、私にとって興味を引かれるのは、本書に少し紹介されている会館の機関誌『会館芸術』のことである。
昭和6年6月に、B5判のアート紙で創刊され、舞台芸術全般の解説、情報や評論、それに小説やエッセイ、詩歌なども載せた内容で、全国的に人気があったという。戦時中はB6判となり、『大阪文化』『厚生文化』と改題し、戦争を挟み、十年位は『デモス』として続刊し、昭和27年11月号から再び『会館芸術』(B5判)に戻っている。(この辺の書誌的詳細ははっきり分らない。実際『デモス』はつい最近古本目録の記載から知った。)終刊も今のところ私には不明だが、昭和30年代の閉館近くまで続いたのだろうか。中之島図書館で調べてもらったところ、少なくとも十一巻、昭和28年までは所蔵している図書館があるそうだ。
とくに注目すべきなのは、昭和10年代後半の号には短篇小説もよく載っていたことだ。大谷氏によれば、織田作之助も昭和15年11月号に「婚期はずれ」を載せたそうだし、本書にある『会館芸術』昭和16年2月号の目次図版には、新田潤の「新京に来た女」が出ている。又新村堂書店目録の旧号にあった昭和16年代の号四冊にも、真杉静枝、矢田津世子、中野重治らの名が挙がっており、小説も含まれていそうだ。表紙もなかなか魅力的だ。
私が初めて図版で見たのは、たまたま入手した大阪、住まいのミュージアム刊の『モダン都市大阪』(2002年)の図録中にカラーで、昭6,8,9年刊の計四冊が載っていたものだが、モダンでシュールなコラージュ風の表紙でたちまち魅きつけられてしまった。本書によると、戦前の初期の多くの号は田村孝之介が担当しているが、他にも鍋井克之や吉原治良、須田剋太などもモダンな意匠で表紙を飾っている。

「会館芸術」表紙
「会館芸術」表紙

私は『会館芸術』が大阪から発行されたのをこうして初めて知り、早速今後、少しずつでも蒐めてみたいと思った。ただ、古本目録などに出ても人気があるらしく、すぐに売り切れてしまうらしい。(芸術系の大学なども蒐集しているようだ。)それで、今のところ、持っているのは東京の知人の玉晴さんからや映画演劇専門の大阪、古本のオギノ店頭などで手に入れた三冊のみである。(昭6,10,26年)残念ながら、これらには小説は載っていないが、宇野千代の随筆「愉しい舞踏」や以前、この連載で紹介したことのある神戸海港詩人倶楽部の詩人でチェリスト、一柳信二の「モウリス・マルシャル」の紹介文があったのはうれしかった。又近年再評価が進んでいる大阪出身の作曲家、貴志康一の、ハイフェッツについての短文もある。なお、目次から昭和6年代のコラージュ風の表紙装幀は前田榮三という人によるものと分った。

これに付随して、朝日会館公演の演劇や音楽会のパンフレットもわずかに入手したが、これは蒐集しだすと切りがない分野だ。ともかく、今後もあきらめずに少しずつでも蒐めてゆきたいものである。


* * *

(追記)
つい最近、難波でオープンしたばかりの「ナンバ古本文化共栄圏」をのぞいて、古い雑誌が雑然と並んだ棚を漁っていたら、ひょこっと一冊、『デモス』(昭23、3月号)が現われ、びっくりし、胸が高鳴った。しかも300円で!
むろん、予備知識がなければ全く見逃してしまった雑誌だろう。あるテーマのことをずっと想っていると、その関連の本や雑誌の方からタイミングよく招き寄せてくれることは、古本好きなら本当に時々体験することだ。

「デモス」表紙
「デモス」表紙

奥付を見ると、編集兼発行人は十河巌となっている。この人は、神戸在住で元、朝日の労働記者から転じ、館長として十数年活躍したが、停年後もサントリーの開高健の後を継いで仕事をしたり、長編小説も書いたりした人だということを、これも最近、神戸の古本屋で手に入れた神戸の文化人の雑誌『半どん』(昭40年4月号)連載の及川英雄(神戸の古い小説家で『半どん』の編集・発行人)の「書き流し神戸」の一文中で知った。
十河氏は及川氏の古くからの文学仲間の一人らしく、『会館芸術』に一時期小説を載せたのもこの十河氏の企画ではなかったかと思う。『デモス』のこの号 ─ たった40頁だが ─ は秋田雨雀の「モスクワ芸術座の『桜の園』を偲ぶ」や、とりわけ夏川静枝の「女優日記」が面白い。昭和23年2月に行われた、朝日会館での民衆芸術劇場の旗上げ公演、藤村原作「破戒」に向けての稽古の様子が日記体で正直に書かれ、彼女の主婦としての悩みや戦後の世相もにじみ出ている。講演は宇野重吉、山口淑子主演で、夏川さんは藤村の詩の朗読を苦心して担当した。公演は大入りで成功だったが、彼女の朗読の評判はよくなかった、と悲しんでいる。

なお、畏友、林哲夫氏の御教示によれば、「DEMOS」はギリシア語で「人民 people」を意味し、ここから「デモクラシー」がきているという。戦後のこの会館の性格にふさわしい名称である。

オッとこれだけでは終らない。実は書いている途中で気づいて、アッと驚いたのだが、これまでに手に入れていた数少ない朝日会館の公演パンフレットの中に、このまさしく昭和23年2月13日〜22日に行われた『破戒』のそれが含まれていたのだ!全く出来すぎた話で、創ったのでは?と疑惑をもたれそうだが、本当なのです。

公演パンフレット「破戒」表紙
公演パンフレット「破戒」表紙

これを見て、まず分ったのは、聞きなれない劇団だと思っていた「民衆芸術劇場」とは、「民芸」のことだった。『破戒』は村山知義の脚色、演出で装置は伊藤熹朔。主なキャストは他に滝沢修、清水将夫、加藤嘉、北林谷栄、森雅之、西村晃、岡田英次など今から見れば錚々たる顔ぶれである。しかし、キャストの活字中に夏川静枝の名は出ていない。詩の朗読だけということで、あまり重視されなかったのか?これは「女優日記」の彼女の嘆きと符合している。パンフは12頁で、中に菊池重三郎の「慟哭する藤村」という『破戒』自費出版のいきさつを伝えた文章や、日本の風土に根ざした新しい新劇の試みへの期待を述べた川端康成の短いコメントものっている充実したものだ。
いずれにせよ、一冊のパンフでもこうして原稿のネタに使えるとは、古本漁りの功徳で、有難いことです。


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