金関に取材されたものの、富士さんは伊吹武彦や桑原武夫と同様、世界文学社のことをあまり覚えておらず、金関を失望させたらしい。その二日後、柴野氏に電話してみるが、呼び出し音が鳴るばかりだった。11月1日に青山氏からハガキで、10月14日、柴野が急性心不全で亡くなったことを初めて知らされる。(丁度、富士さんが電話した日の前後である。)死ぬ前ずっと不眠で悩んでいたという。その後の金関からの葉書によれば、10月27日に葬儀が淋しく営まれ、三高同期の猪木正道(国際政治学者)が代表で挨拶したという。富士さんは日記で、その頃柴野氏が実業之日本社の編集の下受けなどしていたことを伝えている。つまりは私と同じようなフリー編集者として細々と(?)仕事していたのだろう。富士さんは最後の方で「世界文学社については金関が、それよりずっと長期間にわたる柴野の青年時代より最期に至るまでの生涯は青山が書いてくれるであろう。」と期待しているが、これまでのところ、それが本になって出された話は聞いていない。できることなら今からでも具体化してほしいものである。
柴野氏は多田道太郎先生によると、世界文学社やその後、文芸春秋社にもいた頃、敏腕のジャーナリストとして聞こえていたそうだ。しかし、晩年は苦労が多く、さびしい人生だったことが富士さんの文章から伺える。それでも富士さんの筆によって一人の出版人の片影がわずかでも世に遺ったのだ。何の記録にも残らず消えていった編集者の方が圧倒的に多いのだから……。 |