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古書往来
48.織田作・青山光二らの友情と世界文学社・柴野方彦

その前にも、柴野の来訪時の話から三高出身の吉村忠夫や土肥氏も世界文学社にいたが、亡くなったことを知る。吉村忠夫は伊吹武彦の後任で『世界文学』『劇作』の編集長を勤めた人。(これは今回の執筆中、たまたま梅田の古本屋で『世界文学』の一冊を見つけ、その奥付から分ったことだ。)他にも、前述の扉野氏が多田道太郎先生に当時の様子をインタビューした記事の註記によれば、東京駐在編集員として後のフランス哲学者、平井啓之氏もいた。このように、世界文学社には優秀な人材が集まっていたようだ。(※3

※3 もう一人この社にいた人をあげておこう。本稿を仕上げた直後、二月の天神さんの古本展に出かけ、100円均一コーナーを漁っていたら、白水社版と世界文学社版の『劇作』が沢山並んでいた。その奥付を見ると、世界文学社版『劇作』の初期の編集長は林孝一となっていた。

金関に取材されたものの、富士さんは伊吹武彦や桑原武夫と同様、世界文学社のことをあまり覚えておらず、金関を失望させたらしい。その二日後、柴野氏に電話してみるが、呼び出し音が鳴るばかりだった。11月1日に青山氏からハガキで、10月14日、柴野が急性心不全で亡くなったことを初めて知らされる。(丁度、富士さんが電話した日の前後である。)死ぬ前ずっと不眠で悩んでいたという。その後の金関からの葉書によれば、10月27日に葬儀が淋しく営まれ、三高同期の猪木正道(国際政治学者)が代表で挨拶したという。富士さんは日記で、その頃柴野氏が実業之日本社の編集の下受けなどしていたことを伝えている。つまりは私と同じようなフリー編集者として細々と(?)仕事していたのだろう。富士さんは最後の方で「世界文学社については金関が、それよりずっと長期間にわたる柴野の青年時代より最期に至るまでの生涯は青山が書いてくれるであろう。」と期待しているが、これまでのところ、それが本になって出された話は聞いていない。できることなら今からでも具体化してほしいものである。

柴野氏は多田道太郎先生によると、世界文学社やその後、文芸春秋社にもいた頃、敏腕のジャーナリストとして聞こえていたそうだ。しかし、晩年は苦労が多く、さびしい人生だったことが富士さんの文章から伺える。それでも富士さんの筆によって一人の出版人の片影がわずかでも世に遺ったのだ。何の記録にも残らず消えていった編集者の方が圧倒的に多いのだから……。

(追記1)
文中、桑原武夫や多田道太郎に先生と付けたのは、別に教えを受けたわけではないが、青年時代、初めてその著作のファンになった学者が桑原氏だったし、その後、京大人文研の人々の著作もその発想のユニークさにひかれ、次々と読んだ経験があるからだ。多田氏の『複製芸術論』もその一冊だった。

(追記2)
余談だが、2月14日夜のTVニュースで、戦時中に書かれた織田作の未発表原稿「続・夫婦善哉」が鹿児島県の元、改造社社長、山本実彦家で発見された、と伝えていた。内容に、時局に合わないところがあるので、雑誌掲載(『文芸』か?)が見送られたという。出だしの原稿も写り、別府を舞台にした200字詰99枚の短篇だそうだ。丁度、創元社へ原稿を送った日の夜だったので、一寸した偶然の一致で感に入った。

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