この『赤の書』には、鮮烈な色彩が溢れ、
抽象的で象徴的な形体が、飾り文字にまで氾濫する。
ユングはやはり言語的思索者ではなく、
イメージの思索者なのである。
しかもその言葉はニーチェのツァラトゥストラにも並び、現代人の自己との対話を紡ぎ出す。
ニーチェがキリスト教徒及びその歴史観と対決し、
現在に充湓する力を意志したように、
ユングは地獄の修羅へと下降しながらも、
恍惚としてこの現在に帰ってくるのである。
第一次世界大戦は、ヨーロッパの知性に計り知れない衝撃と動揺を与え、その中から、芸術や文学や思想の分野に、20世紀を代表することになる驚異的な作品が、いくつも生み出された。その戦争によって、人々は文明や魂の根源にまで降り立っていく探究に向かうことを、強いられたのだ。ユングの『赤の書』も、そういう時代の不安の中から生まれた。しかし、ユングの試みた探究は、他の知識人たちのそれをはるかに凌駕して、根源的だった。彼は文明によって押し隠されてきた意識のベールを引き裂いて、人類の心を裸に剥き、矛盾沸騰する原初の心の深みに、深々と降りたっていった。ここでのたうち回っているのは、ユングという個人を超えた、集合的な人類の心そのものなのである。
人の心は深い海のようだ。
その無意識の深層に、
ユングはどこまでも潜って行く。
私とは何者か。魂とは何か。
繰り返されるヴィジョンと夢のなかで、ユングは考える。何日も。何年も。
冷静な知性と輝く熱いエロス。
その謎と答えを求め、誰も知らない水底の地図を描いていく。
その地図が、ユングの『赤の書』だ。
ひとりの人間の、世界と魂の物語だ。
ユングがある日、『赤の書』を綴っている時、
女性の声を耳にした。
「あなたの行っているのは科学ではなく芸術なんですよ」。
するとユングはこの声に憤りを感じて
その声に言い返したという。
「これは芸術ではない、これは自然なんだ」
と言った言葉がずっとぼくは気になっていた。
そんな『赤の書』が出版されるという。
この書の中に掲載されているユング自身の手による多くの大型サイズの絵(ビジョン)を目にすることができるかと思うと一刻も早く手にしたい。