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古書往来
60.小寺正三の人と仕事 ―― 高橋鏡太郎再見

私は句集を読んで、小寺氏の他の著書、とくに小説がもしあれば、ぜひ読んでみたいと思い、早速、千里図書館に立ち寄って架蔵を調べてもらった。すると、豊中、岡町図書館の方に『五代友厚』『大阪繁栄記』『玄関の孤独』(以上、小説)『身辺抄』『小寺正三選集』が所蔵されているのが分った。他に随筆集『北摂の地』も出している。さすが、地元の図書館である!このうち、すぐに読めそうな後者、三冊をリクエストすることにした。

「身辺抄」表紙
「身辺抄」表紙

図書館から借り出した本と前述の『へそまがりの弁』から、いろいろ分ったことを紹介してみよう。まず『身辺抄』(岡町図書館蔵)(身辺抄の会、神戸市灘区、みるめ書房刊、平成8年)はA5判、156頁の並製本で、非売品、小寺正三遺稿集である。「あとがき」は加藤とみ子さんが書かれているが、小寺氏が戦後、長く編集、発行していた月刊『俳句公論』『俳句芸術』に参加した、晩年の弟子に当る方である(当時、84歳)。

「わたしらの止みがたい欲望(のぞみ)が、この一書を編みました。」と書き出され、本書出版までのいきさつを詳しく綴っている。要約すると、加藤さんは病気療養中の小寺氏から、二冊目の句集を出すよう勧められ、急いで原稿をまとめ、平成7年1月10日、灘区岩屋にある田中印刷出版に速達で送った。同月17日、阪神大震災が起ったが、印刷所はその周辺で唯一軒、倒壊を免れた。2月12日、小寺氏が八十一歳で逝去する。彼女は悲嘆し困惑したが、小寺氏の畏友、作家、石上玄一郎氏に蛮勇をふるって序文を依頼し、諒承をとりつける。その句集『時と空』は小寺氏の初盆に間に合うよう、出版された。その後、かねて念願の小寺氏の遺稿集は、石上氏の助言もあって、一旦出版は困難かと思われたが、加藤さんはあきらめず、彼女の句集を詩友百数十名に贈呈し、そこに『身辺抄』の上梓について相談する短信を挟みこみ、反応を待った。そうやって本書巻末に掲げられた出版賛助者五十名の資金援助を得て、ようやく出版に漕ぎつけることができたのだ。加藤とみ子さんという、小寺氏を深く敬愛し、中心になって遺稿出版に熱いエネルギーを注いだ人がいなければ、早い出版は不可能だったかもしれない。

さて、『身辺抄』だが、カバーは小寺氏の独特の丸っぽい墨筆の句、「烏瓜一つとなりて夢捨てず」をデザイン的に載せたもの。中味は巻頭に氏の晩年、平成元年から六年までの句を収め、次に評論「桑原武夫「第二芸術」の誤謬」や「俳壇秩序の崩壊」と題する連載評論、さらに「楠本憲吉氏の訃」や丸山健二、川端康成論など、最後に小説から「独座」を収録している。巻末に6頁にわたる氏の墨筆の短冊図版もある。そして、石上玄一郎氏による解説が付けられており、小寺氏との長きにわたるつきあいをたどり、氏の生涯と仕事が紹介されている。要約して紹介しよう。

小寺氏とは石上氏が昭和15年頃、「日本工業新聞」(「産経新聞」の前身)の記者をしていた頃、同僚として出会った。「一向に辺幅を飾らぬ素朴な身なり、ともすれば、どもりがちな関西弁、初対面からして気のおけぬ親しみを感じ、いずれからともなく、新宿裏の居酒屋などへ誘い合って、当時としては肩身のせまい文学青年同士の憂さばらしに痛飲、夜半に及んだものである」と。この氏の印象は前述の伊丹氏のそれとも共通する。
その後、保高徳蔵氏主宰の『文芸首都』にしばらく属していたが、やがてそこを離れ、小説家志望から俳句へと向かった。ここで興味深いことにまたしても、高橋鏡太郎が登場するのだ。

 「(略)なぜ、俳句かということだが、それには当時、同じ社にいた詩人、高橋鏡太郎の影響があるのは争えないところだ」と。続けて鏡太郎氏の略歴を紹介し、「…おなじ大阪育ちのせいか、小寺さんとは特に親しかったようである」と述べる。当時、鏡太郎氏は安住敦とともに、俳誌「琥珀」に参加していたが、彼とともに脱会し、昭和19年に一緒に「多麻」を創刊。これに、のちに小寺氏と伊丹三樹彦氏も参加する。

戦後、小寺氏が新聞社をやめて豊中、熊野田の生家に帰った頃、石上氏は訪ねていって、戦前は大地主だったという宏壮な構えの家に面食らった、とある。その折、鏡太郎氏の消息を尋ねたところ、小寺氏は「この頃、音沙汰ありませんよ。友人達に訊いても消息、全く不明です。妻君とも別れ、子供を連れて、あちこち放浪し、一時は私のところへも、やって来ました。御覧の通りのあばら屋ですが、広いだけが取得で、いくらでも泊ってもらってよかったんですのにね。生憎とその時、この家を売る売らないで、親父ともめていた最中だったもんだから彼も気がねしたらしく、早々に引上げて行きましたよ」「たしかに彼は天成の詩人ですよ」などと語っている。これは、以前、安住敦の『随筆歳時記』中の一文で紹介したように、鏡太郎氏があちこちの句友の家におしかけ、長っ尻して迷惑をかけていた頃の話だ。安住氏は彼が関西にまで足をのばし方々泊り歩いて、もっとも被害を受けたのは、小寺正三、伊丹三樹彦たちだった、と書いている。しかし、この文脈から推測すると、小寺氏はあまり嫌がらず、温かく迎え入れたように思われる。(親友だからこそ、鏡太郎氏は遠慮したのだろうか)

小寺氏は昭和26年から、同人誌「大阪作家」を主宰し、そこに「煙」(のち「独座」と改題)を発表し、川端康成から初めてほめられたという。昭和40年には同誌に「玄関の孤独」を発表したが、それを最後に小説は書いていない。
昭和49年、大阪で初めての月刊総合誌「俳句公論」を創刊する。 これに拠って、文化の中央集権的傾向に抵抗し、地方の新人を発掘し養成する仕事を精力的に続けた。しかし、毎月が赤字続きで、後に「俳句芸術」と改題して再出発したが、なおも欠損が蓄積していった。最後はついに病いに倒れたが、石上氏は「彼の生涯は心魂を傾けた文筆活動に終始し、中央集権的な事大思想に抵抗する反骨精神によって見事に貫かれている。」と、その死を深く悼んでいる。
本書では、「まるめろ」の昔の仲間であった楠本憲吉と長らく疎遠であった氏が、晩年、「俳句芸術」に楠本氏の句や随筆を掲載して友情を回復する話を伊丹氏との親しい交友をからませて書いているエッセイなどが印象に残った。

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