さて、例によってここで、林喜芳氏の生涯をその著作や年譜によって主に出版関係を中心にまとめておこう。
明治41年、神戸市兵庫東川崎町七丁目八十四番屋敷(現中央区)に生まれる。14歳、神戸市立楠高等小学校を卒業前にやめ、神戸市水道課の給仕となる。大正13年、16歳の折、神戸の雑誌(『神戸新聞通信』など)、新聞専門の印刷会社、小国開文堂に文選工として入る。ここは当時、「地獄活版」とアダ名されていた所で、残業は月に70〜80時間、深夜から時に朝3時まで働いた。翌年、そこを辞し、元町六丁目の井上紙店印刷部に勤務。この頃、生涯の友人となる文学青年、板倉栄三と出会う。板倉から高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を借り、ダダとは何かを知ろうと、図書館で神原泰の解説的な本を借り出す。
印刷所では竹中郁の詩集(神戸海港詩人倶楽部刊の『黄蜂と花粉』か?)や詩同人誌『羅針』を印刷していた関係で情報を得、板倉とともに関西学院第一回文化祭に紛れ込み、竹中郁の詩の朗読を聴いて新鮮な感じを受ける。
板倉も一時店で働いていた元町通りはその頃、先端的文化の通り路で、赤マントの画家、今井朝路のうわさを聞いたり、三星堂喫茶部に出入りした。又三宮神社境内にあった喫茶店「カフェ・ガス」では三科の岡本唐貴や浅野孟といった前衛的な画家や文学者、演劇人などがたむろしていた。
昭和2年、板倉と同人誌『戦線詩人』(B6判20頁、100部)を発行。この頃から、能登秀夫(詩人)、及川英雄(役人で小説家、戦後『半どん』主宰)、大橋真弓(詩人)、戸田巽(探偵作家)、中川信夫、十河巌(朝日新聞記者を経て、戦後、朝日会館館長)、浜名与志春(詩人)、竹森一男(作家)らを識り、交流するようになる。同年秋に板倉らと『裸人』を創刊したが、県警本部に呼び出され「『らじん』は『レーニン』と読ますのやろ」と根掘り葉掘り追求され、ギョッとする。始末書を書かされやっと解放された。 |