(追記)
今回の原稿を書き終えた頃、私はふと、前述の小島輝正が文明社のことを何かエッセイに書いていないだろうか、と思いついた。阪急、淡路の「本の森」に、小島の本が何かあったことを思い出して早速出かけてみると、予想通り『ディアボロの歌』(1984年、編集工房ノア)の裸本が見つかった。250円!(ここは総体に安いので助かります。)小島は神戸に長く住んだ著名なフランス文学者だが、私はあまり氏の本を読んではいない。しかし本書は目次を一見しても面白そうである。二、三読んだが、なかなか味がある、ユーモアセンスにも富む好文章だ。この中の「私の出会った人」という総題で、渡辺一夫、太宰治、富士正晴、安東次男ら六人とのつきあいがごく短文で書かれている中に、田宮虎彦も挙げられている。この一文と巻末の自筆年譜によれば、小島は戦争中仕事に行っていたヴェトナムのハノイから21年5月にようやく帰国し、失職していたが、東京府立高校からの友人、旭一美が勤めていた文明社に紹介してもらい、21年夏から「文明」を手伝うことになった。小島、26歳のときである。氏はこう書いている。「仕事のうえで数多くの作家や評論家と直接接することができたのも、もとより得がたい体験だったが、何より役立ったのは、日々接した田宮氏の人柄から無言のうちに教えられた、誠実と責任感とであった。」と。文明社での仕事のことはとくに書かれていないが、「太宰治」の項では、原稿依頼に三鷹の太宰の家に初めて行ったが、「かねて畏怖していたこの流行作家と差し向いになって、駆け出し編集者の私は、原稿依頼どころかろくすっぽ口もきけず、何を話したかも分らぬうちに、無我夢中のまま別れた。」とある。私も昔、駆け出し編集者の頃、初めて河合隼雄先生のお宅に伺い、緊張でコチコチになってわずかしか話せなかったことを憶い出す。
ついでながら、年譜によれば、文明社退社後、小島は生活社に入ったが、経営不振でそこも退社し、数名の社員とともに、自分で「洛陽書院」をはじめた。渡辺一夫訳の『ふらんす百綺譚』など二、三冊を出すも、たちまち経営危機に陥ったという。昭和25年、神戸大の講師に採用され、やっと生活が安定したようだ。
私は今回、小島が20代後半に編集者をしていたことを知り、より身近に感じることができた。本書の他のエッセイもゆっくり読もうと思う。 |