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古書往来
46.澁川驍展の図録と文明社の本と

話が又も逸れたが、私がそこで見つけた一冊が、美術展図録の並びにあった『澁川驍と昭和の時代』(平7、東京都近代文学館)という薄い図録である。言うまでもなく、澁川驍(本名・山崎武雄)も『日歴』の中心的な同人であった作家であり、新田潤ともつながりのある人なので、これは有難い、参考にもなる、と喜んだ。それに「日歴」の総目次が八頁にわたって付けられているのも貴重な資料だ。

「澁川驍と昭和の時代」表紙
「澁川驍と昭和の時代」表紙

表紙は金田新治郎という画家による油絵の澁川の肖像画が全面に使われていて、いかにも渋い作家らしい表情がリアルに伝わってくる。トビラには、新田潤による、澁川の顔の墨筆のスケッチが添えられている! この編集は当時の館長の紅野敏郎氏や進藤純孝氏、保昌正夫氏によるものだけあって、とても充実している。

コラムも多く、福田清人、高間秋子(高見順の奥様)、水上勉、徳廣睦子(上林の妹さん)など12人の文章、それに山崎柄根氏(息子さん)の「父・澁川驍」も載っている。
澁川は戦前、宇野千代や宇野浩二、広津和郎らに評価された『龍源寺』(昭13、竹村書房)や、『樽切湖』(昭15、春陽堂)、『外套』(昭17、春陽堂)などを出し、戦後も地味ながら味わい深い小説をねばり強く書き続けた人だ。水上勉はコラムで「誠実、質素、控え目、を地でゆく人だったと思う。」と書いている。息子さんの山崎柄根氏の一文によると、「ゆっくり急げ」という格言が、一生を貫く姿勢だったという。戦前は東大付属図書館、戦後は国立国会図書館他に長く勤め、図書館人としての業績も多い。その視点から『書庫のキャレル』というエッセイ集も出している。晩年は自宅に「青桐書房」を設け、そこから『出港』など自己の小説集を出し続けた。
とはいえ、私は澁川の小説は以前手に入れた『柴笛』(昭21、筑摩書房)を読んだ位で、それも今は手元になく、どんな内容だったかも殆んど覚えていないが、叙情的な自伝小説「少年時代」を中心にした作品集だったと思う。そうそう、河出のアンソロジーに収録の「雨雲」も読んだことがあるが……。だから、これ以上、澁川氏のことを書く資格はない。

ただ、この図録のカラー頁の最後にある、著者による『柴笛』の附記の再録は、本書が出版に至るまでのエピソードとして大へん興味深いので、要約して紹介させていただこう。
まず「この作品集は戦時中筑摩書房の古田晁君のすすめに従って出版を思ひたつたものである。」と書き出されている。当時、東京への空爆が極めて熾烈な際で、筑摩書房も焼失、それで少しずつ原稿を手渡し、最後の原稿を渡したのは七月三十日だった! 古田氏はそれをたずさえ、八月五日、印刷依頼に信州に赴く途中、午前十一時頃興瀬付近で列車に銃撃を受けた。多数の死傷者が出、古田氏のすぐ隣りの乗客も二人即死し、その一人の血が、丁度読んでいた『柴笛』の原稿の上に跳ねかかった。しかし幸いに彼は無事だったという。そして、「あの困難な時期にも、文学作品の刊行を休めず、そのためひたすら挺身的活動をつづけてゐた彼の勇気と努力に心からの感激を表したい。」と感謝の言葉を述べている。その一文の上に、『柴笛』の書影と、その生々しい血染めの原稿の一枚の写真が載っている。この「附記」は私もそういえば読んで強烈な印象を受けたのを今、思い出した。まことにドラマティックな敗戦間際の出版のエピソードである。


さて、私がこの図録でもう一つ注目したのは、カラーで書影が載っていた戦後版の『龍源寺』で、これが文明社刊、昭和21年5月(装丁 花森安治)とあったからである。この本は私も以前、どこかの古本屋で見たことがある。前回紹介した新田潤の『煙管』も文明社刊、花森の装丁であった。私はにわかにこの文明社のことをもっと知りたくなった。

「龍源寺」表紙
「龍源寺」表紙

まず、千里中央図書館で『大事典』を見ると、田宮虎彦の項は澁川が担当しており、そこで、戦後すぐに「桜井馨の援助を受け、文明社を興す」とあった。また、手元におあつらえ向きに筑摩現代文学大系64の『田宮虎彦・梅崎春生集』があったので、巻末の田宮の年譜を見てみると、昭和20年、35歳の項に「敗戦直後、雑誌『文明』の編集に当り、荒木巍、井上友一郎、新田潤、澁川驍の助力を受けた。」とある。これらの人は殆んど『日歴』の同人仲間である(井上のみ『人民文庫』の執筆グループの一人)。そして、昭和23年3月、『文明』を廃刊し、作家生活に入る、とあった。おそらく、文明社も同じ頃、閉社したものと思われる。
そこで『文明』はどんな雑誌だったのか、思いついて、これも手元にある『近代文学雑誌事典』をのぞいてみた。(けっこう、役に立つ本もそばにあるものです。)短い項目だが、「創刊・終刊……昭和21年2月−昭和23年3月」とあり、発行所は「中野区本町通六ノ一四 文明社」となっている。これは単行本出版の住所通りである。ただ、月刊だったのかどうか、計何冊出したのかの記述はない。(他の多くの雑誌には、記述があるのだが)A5判で100〜200頁位。解説によれば、「はじめ総合誌的な色彩もみられたが、漸次文芸誌としての性格を確立し、『小説は民の声である』との田宮の信念に基づき三回の小説特集号が編まれ……」と紹介されている。掲載作品の収穫として原民喜「冬日記」伊藤整「鳴海仙吉の朝」、それに新田潤「妻の行方」もここに載ったのだという。後半期には田宮を助けて小島輝正が編集にたずさわっている。

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