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35.天野隆一(大虹)と関西の詩人たち |
さて、続けて読んだ後半の書誌的回想録はさらに興味深いものだった。 天野氏は、京都絵画専門学校(現・京都芸術大学)に入る直前、大正14年1月に画家志望の学生仲間と『青樹』を創刊するが、年長の知合いの詩人、山村順にも寄稿してもらう。山村氏も西宮の邸宅に住んでいたので、帰省の折、よく訪ねた仲であった。(氏は『おそはる』や『水兵と娘』『空中散歩』など出した詩人)酒に弱い天野氏だが、山村氏に連れられて元町や心斎橋筋の高級バーを回り、京阪神のレビューも一緒に見て回った。福原、竹中が創刊した「羅針」は「青樹」に先立つ大正13年12月に出たが、山村も参加した関係で、天野氏は彼の紹介で福原や竹中、富田と会い、つきあいが始まる。「羅針」はB5判全八頁、二段組のソフトな編輯であった、と書いている。(天野氏は同人誌の編集が長く、その上、画家で書誌や装幀にも関心が深いので、雑誌の体裁や紙質、組み方などについてもしばしば詳しく記述している。未見の者にはとても参考になる。)その当時の竹中郁の自宅の書斎の描写がとりわけ印象深い。 |
「竹中郁さんもその時は関西学院英文科の学生で、須磨のテニスコートのある家に住んでいて、大きな部屋が沢山あるのに、二階の三畳の天井の斜につかえるが、海のよく見える小部屋に、詩集を一ぱいならべ、卓や椅子を所せまきまで置き書斎にしていた。」 |
次に、氏が通巻55号(大正14年〜昭和12年)にわたって編集した詩誌「青樹」をめぐる書誌的文章三篇も、私には知らないことが多く出てきて、大いに参考になった。「青樹」は最初、美術学生の同人誌なので、瀟洒な装幀で、上質の洋紙を用いたという。11号から35号まで、ビアズレ・独逸版画・ピカソ・マチス・グロッス・コクトオ、マンレイの前衛写真などを挿画に入れ、「表紙も私が紙問屋に出向き選択して、それぞれに毎号変化をつけたと記している。シュールリアリズム系の作品が多く、当時の全国の第一線の詩人の多数の寄稿を得た。ぜひ実物を一冊でも見てみたいものだ。 |
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さらに注目すべきなのは、この青樹社から同人の豪華版詩集が全17冊も出ていることだ(私はまだ一冊も見たことがない。オッと、何も自慢しなくても・・・)。このうちの主なものだけ挙げておこう。 |
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「装幀造本に木版手刷や本文二色刷等、造本の意を用いて上判した。」とある。天野大虹装も四、五冊以上あるようだ。大虹氏は他にも関西の詩人仲間の詩集の装幀をかなり手がけており、私が古本で持っている中にも、喜志邦三『木曜詩話』(昭14、交蘭社)や同『花珊瑚』(昭12)『荒木文雄詩集』(昭53、ラビーン社)がある。 |
「木曜詩話」表紙 |
詩集中に出てくる笠野半爾も私にはまったく初耳の人だが、天野氏によれば、堺出身で喜志邦三の従弟に当り、当時同志社大の学生だった。その詩は年少にかかわらず、完成に近いリリシズムをたたえたもので、彼の詩集を田中冬二や北園克衛、津村信夫らが感嘆した読後評を発表したと、それらの文章を紹介している。大学を中退して上京し、太宰治や檀一雄らと交友した。その後生活の転変で長く詩筆を断ったが、昭和41年、『象徴の森 ─ 太宰治の霊に捧ぐ』を出版、「RAVINE」に参加し、遺稿詩集に『ああ断橋』(昭50)があるという。 「紅い柘榴の花が強い日射しの中に咲いてゐる/雨ぐもりの日/私はきまったやうに血の触感にわなないた/このときこそ私の舌の生ぬるい血痰が/夏艸の匂ひの泌んだ柘榴のつぶとなって/私の心はいつか遠いふるさとの庭先へかへってゐる」 これらの詩集も調べてみると、驚くべきことに新村堂書店の目録には九冊も載っているが、皆とても高価で手に入れられないのは残念だ。それだけ評価が高いということだろう。(「青樹」も同様である) |
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