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古書往来
31.大阪の知られざる古い詩人たち
─ 大西鵜之介と藤村青一 ─

今年春の京都の古本祭りは初日に出かけ、福田屋書店のコーナーで、一寸気になるタイトルの函入りの詩集を見つけた。大西鵜之介著、叙情歌集『薔薇の騎士』(叙情歌社、大正14年)である。

「薔薇の騎士」函と本体表紙ビニール包みだったが、つい中をのぞきたくなって封をとって取り出すと(困るなあ・・・)、本体表紙にバラの花を口にくわえたトランプのクイーン(?)を上下に逆様に配した意匠が現れ、頁を開くと、口絵に伊藤杜詩夫という未知の画家(装幀も同人)の「悲しき十三時半」と題する、三日月の下弦に乗った若いピエロの男女が接吻している図を可愛く描いた白黒の版画っぽい、世紀末風の絵が目に入ってきて、瞬間、気に入ってしまった。
口絵「悲しき十三時半」/伊藤杜詩夫
口絵「悲しき十三時半」/伊藤杜詩夫

それに奥付を見ると、発行所住所が「大阪市南区難波新地二ノ十二」となっており、大阪発の出版だ!著者の住所も「南区瓦屋町二番丁五十番地」で印刷所はすぐ近くの十二番地、山田文化堂とあり、おそらく自費出版であろう。
その折、とっさに思ったのはこの著者の名はどこかで見たことがあるなあ、ということだった。けれども私にはけっこうな値段で、他にも何冊か買いたい本もあったので、迷ったがやむなく断念してその日は帰った。
しかし、どうも気になって仕方がなく、二、三日後福田屋書店にFaxして聞いてみると、まだ残っており、おまけに期間中に売れなかったので、千円値引してくれるという。良心的な店だ。それで私は思いきって注文し送ってもらった。

この歌集の函の題箋(だいせん)はタテ組だが、本文はすべてヨコ組で朱色のケイで囲んだ頁の中に四首ずつ収められていて、この時代の本としては大胆で珍しい組み方だろう。(歌にローマ字が時々出てくるからでもあろうが)内容は、おそらく二十代の著者の、実体験とフィクションを織りまぜた恋愛、とくに悲恋の情調を様々な場面で唱ったもので、若者特有のモダンなロマンティシズムといった雰囲気が濃厚である。古き良き時代の道頓堀や京都祇園などを舞台にしている。
アトランダムに抜き出してみると、

「とある夜とあるカフェの/石卓に/コーヒ茶碗の並びし思い出」
「とらむぷの/くゐんときんぐの逢瀬より/つれなかりける別れなりけり」
「春の夜の/桜をあびてきみと行く/物語りめく恋もするかな」
「OSAKAの/DOTOMBORIの灯の街に/われあり詩人黒衣のピエロ」

といったものである。
実体験なのかどうか、駆けおちした二人を詠った「さすらひ」という章もある。

さて、この大西鵜之介という著者だが、調べればすぐに略歴位分るだろうと思い、まず『近代文学大事典』や最近出た『大阪近代文学事典』などを見たが、立項されていない。詩歌書専門の石神井書林目録のバックナンバーを繰ってみても一冊も出てこない。
それで、安易な方法だが、ごくたまに交流させていただいている、大阪の文芸史に最も詳しい肥田晧三先生にお便りして尋ねてみたところ、先生もご存知ないとの御返事。たまたま古本好きで文学に詳しい年上の知人、小野原道雄氏にお見せしたら興味をもたれ、インターネットで調べて下さった。
すると、どんな人かは分らぬが、他の著書に詩集『刺繍のある黒壇』(人工地獄第一輯、一九二六、関西詩人倶楽部出版部)『亜鉛風景』(同第二輯、一九二七、高踏詩園<大阪>)があり、いずれも二十頁位の小冊子が出ていたという。実は私の手に入れた歌集の奥付裏にも、近刊として、詩集『仮面の市民』叙情詩集『逝ける薔薇園』が挙がっているが、実際に刊行されたかどうか不明。前述の本は昭和二、三年刊で割に接近して出ている。
その後も、ない知恵を絞ってなおも調べようとしたが、なかなか手立てがないまま、一ヶ月余りが過ぎた。ある日、どうもこの人の名は自分が以前書いたエッセイの中に出てきたことがあるなという思いが記憶の淵からふいに浮び上がってきたのである。それを今まで思い出せなかったとは、相当ボケが進行していると見える。(ヤバイぞ!)
それは、今はもう休刊した東京、町田市の高原書店のPR誌の終刊号(2002年)に投稿した「関西の消えた出版社のこと」なる一文である。


「奇妙な本棚」函
「奇妙な本棚」函

そこで私は、大阪、十三の詩人、故清水正一の本や小野十三郎『奇妙な本棚』(第一書店、昭39)収録のエッセイを要約しつつ、戦後すぐの大阪の小さな出版社のことを紹介しており、大西の名も何度か文中に出てきたのだ!
ここで、少々重複するが、小野の本からより詳しく引用・紹介しておこう。


小野は昭和22年、『詩論』を真善美社から出すが、誤植も多く完全なものにして残しておきたかったところ、出版社がつぶれ絶版になっていた。
ある日、「街で、昔、二十代のはじめのころ、道頓堀あたりの酒場で一しょによく騒いだ大阪の古い詩人大西鵜之介にばったり会った。」(一緒に遊んだのは大西がこの歌集を出した頃かもしれない!)「神兵隊事件に連座して、戦前長らく獄中にあったときいていたので、いまどうしているの?と云うと、藤村兄弟の会社にいると云う。」藤村兄弟も大阪の古い詩人、藤村雅光と青一で、二人が戦後、紙コップ製造会社を創め、一時大繁盛しており、大西はそこの専務であった。
会社は小野宅から歩いてすぐの所で、二、三日後訪ねると、懐旧談や文学談義に花が咲き、早速彼らから詩の雑誌を出そうという相談を受ける。「昭和二十二年の暮に第一号を発刊して二十四年までに約二十冊継続した『詩文化』はこうして偶然のいきさつで生れた。」という。この藤村兄弟の不二書房から、『詩論』の改訂版や安西冬衛の『座せる闘牛士』(昭24)も出してもらった。
小野は次のように述懐する。「昭和二十四年のあれは大晦日の夕、大西が製本がなったばかりの新版『詩論』若干部とともに、印税として二万円を封筒に入れて、家に持ってきてくれたときのことをわたしは忘れない。」と。小野はその金で正月を送ることができたのだった。
それからしばらくして、前から胸を患っていた大西の病状が悪化したり、度重なる取引のトラブルなどで会社は解散してしまう。「大西が、ときに商売のことをほったらかしにして、割りつけから校正、造本と一切の面倒を見てくれたわたしの『詩論』の新版も、かれらの最初のおもわく通りに売れず、かなりの返本があって、わたしはなんら報いるところがなかったのも、会社がそういう事態になったからというわけではないが、未だに心残りだ。」小野はこのように、彼らの出版への情熱と支援に心からの感謝と負い目の心情を吐露している。大西は手術を受けて一たん持ち直したものの、まもなく亡くなったという。
大西の戦前の前半生はよく分らぬものの、小野と若い頃から親交があり、戦争中は投獄されていたという話から、アナーキズム系の詩人だったのかもしれない。(歌集にはまだそのような気配はないが)戦後の晩年は、『詩文化』編集委員の一人として、自分は裏方に徹し、若いすぐれた詩人たちを育て世に出すべく、縁の下の力持ち的存在として奮闘したようだ。


なお、藤村兄弟の青一氏については、同じ所で小野も少し語っているが、前述の小野原氏が古本で見つけて進呈して下さった河津武俊著『秋澄』(講談社、昭63)に一章とって詳しく登場している。
本書は明石に生れ、九州、大阪、名古屋・・・と漂泊の生活を送り、芥川賞候補作品「銀杏物語」を唯一残した忘れられた作家、岡田徳次郎の生涯を、大分在住の医師で小説家の著者が岡田の親族や友人らの聞き書によって追跡したものだ。

「秋澄」表紙
「秋澄」表紙

この本自体、興味深いが、今は簡単に青一氏の話に焦点を当てると、氏も明石の生れで、昭和5年関西学院大を卒業し、義兄のラシャ問屋で働いていた氏は麻生路郎主宰の川柳会に参加し、そこで岡田(号・某人)と出会い、陰(岡田)と陽(青一)の正反対の性格でひかれ合い、以来無二の親友となる。岡田が放浪から大阪へ戻ってきた折、何かと面倒を見たり、晩年に至るまで親交を続けている。
その詳細は本書を読んでいただきたいが、出版のことのみ紹介すると、青二氏はすでに戦前、昭和8年に処女詩集『保羅(パウロ)』、昭和15年、随想集『詩人複眼』を出し、戦後にも詩集『秘奥』『詩川柳考』(昭35)、詩川柳集『白黒(びゃっこく)記』(昭49)を出している。これらを読んでみたいが、なかなか古本屋にも現れないだろう。第一、青一氏自身、一冊も持っていないという。昭和39年末頃から失明し、一時は大へん苦悩したが、そんな中で自分を救ってくれたのはやはり文学への執念で、とくに「詩川柳」の句作だったという。以前から青二氏は、川柳は単なる洒落、滑稽、風刺を越えた奥の深い、詩に近いものと主張し、例えば失明後、次の句を詠んでいる。

くらやみに酔い撒きちらし杖おどる
自らを座標となって部屋にいる
首筋に冷たく白と覚える雪少し
失明のつらさにあらず詩の苦悩

氏の話によれば、『詩文化』は氏がオーナーとなり、安西冬衛、小野十三郎、竹中郁、大西、兄の雅光が編纂委員になって創刊、当時、東京工大の学生だった吉本隆明や、井上靖、長谷川龍生なども寄稿し、若い詩人たちを育てたという自負をもっている。原稿料もそれなりに出したが、詩や評論掲載の取捨選択は編者に任せ、自分は一切口を挟まなかった。

なお、兄の雅光氏も、以前見た古本目録によれば、昭和23年、詩集『葡萄の房』を小野十三郎の序文、鍋井克之の装幀で出している。出版社は不明だが、おそらく自社の不二書房からだろう。
こうして私は、今回も見つけた古本を通して、大阪の知られざる詩人たちの生涯の断片や詩人同士の結びつきを種々追体験することができたのである。

なお、中之島図書館で調べてもらったところ、大西の『薔薇の騎士』は大阪女子大図書館と国会図書館しか所蔵してないそうである。

+++

この原稿を書いた直後にふと思いついて石神井書林目録の最近号を繰ってみると、雑誌の項に、『詩文化』18冊一括とバラで一冊、14号(昭24年9月)が出ているではないか。むろん、前者は高くて買えないので、後者の一冊をすぐに注文した。
送ってもらったのを見ると、戦後すぐの雑誌としては紙質もよく、表紙もシンプルながらレオナルド・ダ・ヴィンチの素描を配した格調あるもの。内容はといえば、「世界詩へのつながり」という特集で笹澤美明、眞壁仁らが書いており、あとは編さん委員の話やエッセイが多い。
しかし詩欄には、三木露風や秋山清も寄稿しているし、大西の「螺旋階段 ─ メルヘン風に ─」という、モダンでしゃれたのも載っている。(初めて見る大西の貴重な詩だ!)又高梨和男の長めのエッセイ「詩人と猫」は内外の猫を唱った詩が次々紹介される楽しいもの。
藤村雅光も「章子抄」と題する三段組五頁にわたる詩を発表しており、一時期の北原白秋を支えた妻の一人だった江口章子のことを思い出し切々と唱っている。その中で、雅光氏が若い頃、小田原の白秋の家にいたことが出ていて、私はそんな履歴があった人なのかと興味深かった。これも人と人との意外なつながりの妙である。

さて、私が他に注目したのは表紙裏に載っている不二書房(阿倍野区清明通一の四一)の出版広告である。
これに小野の『詩論』決定版が大きく掲げられ「再版近づく、斯界のベストセラー」と唱われており、出版社の意気込みの強さが伺われる。その横に、既刊の雅光の詩集『曼珠抄華』、安西の『座せる闘牛士』、近刊の竹中郁『Dover海峡の女』青一の『秘奥』、大西の『螺旋階段』小野『大阪』が出ている。このうち、竹中、大西の詩集は未刊に終わったようで残念だ。青一氏の『秘奥』は昭和55年にも他から再刊している。なお、次号十月号の予告には吉本隆明の「方法的思想の一問題」が巻頭に挙がっている。


(追記)
私に古本の神様が舞い下りて来たのか・・・・。どうも最近ツキすぎて恐い位である。この項を書いて、二、三日後、オープンしたての「ナンバ古本文化共栄圏」についでがあって三度目にのぞき、ざっと眺め回して何もなかったので店を出ようと思ったところ、クライン文庫の平台の下に、雑然と本が詰めこまれた箱がふと目に入った。念のためと思い、しゃがんで一冊ずつ点検していたら、何とその中から藤村誠一『詩人複眼』(堺市、不朽洞、昭15)が出てきた。(この頃は、誠一というペンネームを使っていたようだ)。しかも値段を見ると、たった100円である。おそらく見かけることはまずないだろうと思っていた本にこれほど早く出会えるとは!はやる興奮を抑えつつレジに持っていったのはいうまでもない。

本はB6判100頁程の並製フランス装だが、紙はりっぱな厚い上質紙。田村孝之介の葉鶏頭とトンボを描いた単彩スケッチが表紙を飾っている。口絵に著者近影写真があり、和服でペンを握った青一氏が俳優かと見まがう程のハンサムな顔でこちらを見つめている。まだ三十代始めの頃だろう。 「詩人複眼」口絵/著者近影より
「詩人複眼」口絵
著者近影より

序文はまず川柳の師、麻生路郎の面白い”序文考”を含んだ一文。次に大阪出身の先輩詩人、百田宗治の一寸辛らつな文章、跋には大阪の詩友、吉川則比古による青一氏とのつきあいと好意的に著者像を語った一文が添えられている。(吉川も戦前の大阪で全国向けの詩誌『日本詩壇』を長らく編集していた詩人。)
収録の随筆は半分位が路郎氏主宰の『川柳雑誌』に連載され、タイトルにもなった「詩人複眼」で、さすがに詩人らしい、鋭く意表をつく視点で、主に人間の外観 ─ 目や臍や髭、後姿など ─ を観察していて、面白い。人間の目とトンボの複眼を比較したり、蛙の腹の美しさと人間の腹にあるへその醜さを対照的に俎上に乗せたり・・・。さらに後姿で複雑な表情を見せる男女の違いを考えたりと、発想がさえている。だが、後半になると、戦争中らしい時局的な発言や、女性観の、今から見れば少々スタレオタイプな見方 ─ 男は能動的、女は受動的なのが本来の姿という ─ も垣間見られ、少々いただけない気もした。ともあれ、私の大切な蔵書がまた一冊ふえた。


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