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18.詩を書く二人の映画人 |
今回は著名な映画人が、実は詩人でもあったという事実を紹介してみよう。 といっても私は二人の作った映画をわずかしか見た記憶がないので、本当は書く資格がないのだが、古本からたまたま得た意外な情報を他の人にも伝えたいという誘惑に抗しきれなかった。お許し願いたい。 まず、映画監督、中川信夫氏から。戦後の新東宝で「東海道四谷怪談」や「地獄」などの娯楽映画を沢山撮り、晩年はその特異な幻想性の表出で国際映画祭でも評価された人である。 |
「神戸文芸雑兵物語」表紙/装画・岡本唐貴「ある日のカフェ・ガス」 |
私が初めて中川氏が詩人でもあったことを知ったのは、昨年、元町の古本屋で林喜芳(はやし きよし)著『神戸文芸雑兵物語』(昭和61、冬鵲房(とうじゃくぼう))を見つけ、読んで以来である。 詩人の林氏は一時、香具師もやっていたせいか、語り口がめっぽう巧みで、ぐいぐい引き込まれてしまった。 明治41年、新開地のすぐ近くの貧乏な家に生まれた林氏が、印刷工をしつつ、16歳頃知り合った文学青年、板倉栄三と無二の親友になり、詩の同人誌を出したり、大正後期から昭和初期にかけて広まった日本の先端的文学・芸術思潮、ダダイズム、未来派、表現主義、プロレタリア詩などの波を神戸でも敏感にかぶり、様々な詩人や画家と交流しながら成長してゆく日々を回想した文学的自叙伝であり、神戸の文芸史の証言としても貴重なものだ。 例えば画家、岡本唐貴や浅野孟府などが登場する「カフェ・ガスあたり」や神戸探偵作家クラブ、神戸大衆文芸クラブの面々の動きが回想される「大衆文芸の季節」などがとりわけ面白い。(ちなみに横溝正史はデビュー前後、新開地の薬局に勤めていた) 林氏はその後、露店商人になったり、戦後は印刷会社の営業マンとして12年勤めている。 詩集に『露店商人の歌』(正続)、随筆集に『香具師風景走馬灯』『わいらの新開地』(二冊共、冬鵲房)がある。 この冬鵲房は林氏ら三人を代表者とする垂水にあった出版社で、裏広告には他にも詩人、和田英子の『警報の鳴るまち』など六冊が載っている。私は神戸に育ちながら今までまったく知らなかった。(今はもうないようだ) だいぶ回り道をしたが、氏は本書の「ゑひもせす・中川信夫のこと」で、旧友、中川を追悼している。 これによれば、中川は昭和7年、奈良あやめ池(奈良県奈良市)にあった(市川)右太衛門プロに28歳のとき入り、二年間の助監督を経て「弓矢八幡剣」で監督に昇進。傑作「東海の顔役」で注目される。 助監督時代、「寝返り仁義」の制作で会社から「ニ、三日で台本を書け」と厳命され、「その夜(大阪)道頓堀から千日前あたりの古本屋を物色して、四、五冊の古雑誌を買い、それにヒントを得て書き上げた。という」驚異的なスピードである。 右太プロは昭和11年に閉鎖、戦後は新東宝に入り、昭和36年倒産まで58本もの、自称B級映画を撮った。 戦後早々の浪人時代、林氏は昭和22年元旦の「新大阪新聞」に中川の懸賞応募詩が第一席で掲載されたのを見つけたという。中川氏には一冊の詩集『業』(私家版、昭和56)があり、152篇が収録されている。 そこから、耐える人が白一色の世界を厳しく見つめたシネマ・ポエム風の「無人歌」や怪談映画作家の自身を自意識とユーモアをもって捉えた「怪談軒凝斎」などを紹介している。(引用できないのが残念だ) 一生、酒をよき友とした。 |
「前夜祭」表紙 |
私はその後、「前夜祭」No.5(昭和45)という大阪刊の詩誌を見つけた。 そこに足立巻一氏と清水正一氏の対談「終戦詩の最前線」が載っており、足立氏が夕刊紙「新大阪」発足時の事情を語り、「労働街」という欄に中川信夫という人が「掌の地図」という詩を投稿して初めて登場したこと、両氏とも、戦前、中川の映画をいろいろ見て知っていたにもかかわらず、それが同姓同名の別人としばらく思いこんでいたことを話している。 当時中川氏は西宮球場の守衛室のようなところに住んでいたそうだ。氏は昭和59年に79歳で亡くなった。 |
さて、次はシナリオライターの依田義賢(よしかた)氏である。(こちらの方は割と知られている事実のようだ) 依田氏は明治42年京都生まれ。昭和11年、「浪華悲歌」で溝口健二監督映画の脚本を初めて担当、以来名コンビとして「祇園の姉妹」「西鶴一代女」「近松物語」「山淑太夫」など数々の名作を生み出す。他にも山本薩夫「荷車の歌」など。 現役引退後も大阪芸術大教授として活躍し、平成3年没、著書に『溝口健二の人と芸術』や『京のをんな』などがある。 依田氏が詩人でもあることを知ったのは、やはり河野仁昭氏の『戦後京都の詩人たち』に依る。 戦後、コルボウ詩話会に属し、その後、「骨」の編集・発行人でもあったが、昭和28年、映画「雨月物語」がヴェニス映画祭でグランプリを取り、授賞式に出席後、欧州、インドなどを回り、その旅の散文詩をまとめて第二詩集『ろーま』(昭和31、骨発行所)を出したと紹介されている。この人には戦前からの詩歴があった。 |
「冬晴れ」表紙 |
私は今年の春、本町天牛店(大阪市中央区・古書店)で90頁程の薄いがしっかりした上製本の詩集『冬晴れ』(昭和16、ウスヰ書房)を見つけた。題字はあの巨匠、溝口健二のものだ! ウスヰ書房は当時、京大北門前にあって詩誌「新生」他を出していたが、自身も詩人である臼井喜之介は単行本を出そうと、まず詩集を企画、臼井の『ともしびの歌』を手始めに出し、次に「新生」を代表する依田氏の詩集を選んだ、と巻末の「『詩集』刊行の辞」で述べている。 私は早速通読したが、街の風景や自然を唄った純粋で叙情的なもので、他者への優しい気持ちも感じられる好ましい詩集だ。 |
とくに何げない風のそよぎや樹木にも<神>の存在を感受する敬虔な心情を唄ったいくつかの詩が印象に残った。 さらに興味をひくのが<後記>の文章で、「私が詩集を出すといったところ、映画の方の友人が、お前が詩を書くのかと大笑ひをして、てんでまともに聞いてくれないのです」と書き出し、映画関係の人にはあまり知られたくないし、言いたくなかった、詩を書くことは<ひそかな秘密の部屋>であって、映画の方でいじめられると、そこでべそをかき慰めては出て行った、などと語っている。 苦闘し精進する本業が一方にあってこそ、詩作は楽しみで、慰めも得られたのかもしれない。 最後にこの詩集から、一篇のみ、私の好きな作品を引用させていただこう。 机邊 (追記)過日、京橋(大阪市都島区)、ツイン21の古本フェアで、依田義賢シナリオ集『浪華悲歌 祇園の姉妹』(昭和21、発売・京都、第八芸術社)を見つけた。こちらは若き日の依田氏の本業の方の著作である。 口絵に依田氏の着物姿の写真と映画のスチール写真三点が載っている。今では貴重なものかもしれない。 序文はやはり、溝口健二が書いているが、かなり辛口のものだ。 「依田君の第一稿はいつも面白くない。そこで私がやっつけると、すっかり違った、とんでもないような第二稿を書いてきて、何度私は面喰ったか知れない。・・・(略)・・・これは困ると思って、また意見をのべると、第三稿を持ってくる。ところが、このあたりから、見違へるような生彩を放ってくるのである」と。 そして「依田君といふ人は、つつかねば駄目な人」であり、この作品も初期の未熟なものであって、将来を期待する旨の言葉で終っている。脚本家として新人の頃なので、ムリもないが、それにしても相当厳しい、一寸珍しい序文ではある。 こんな文章なら依頼しなければよかった、と依田氏はくさったかもしれない。 詩集の後記で「映画の方でいじめられると‥‥」とあったのは、このようなことを指すのだろう。 |
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「浪華悲歌 祇園の姉妹」表紙 |
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