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10.戦前のPR誌「創元」を見つける! |
最近、曽根博義氏が「日本古書通信」等に続けて発表された「雑誌『L’SPIRIT NOUVEAU』第七号の行方」と「紀伊國屋書店のPR誌」は出版史に関心を持つ私にとって大へん刺激的な評論だった。 前者は昭和5年に創刊された紀伊國屋発行のモダニズムの文学雑誌だが、かつて佐々木桔梗氏が幻の第七号の存在を指摘して以来、20年ぶりにその号が昨年の古本屋目録に現れ、曽根氏は獲り逃したものの、ネットで偶然入手者と出会い、好意でその貴重なコピーを送ってもらったいきさつを感動的に報告している。 後者は、昭和6年に新刊案内として「紀伊國屋月報」が創刊され、9冊出して後「レセンゾ」「レツェンゾ」と改題して続刊、昭和11年まで37冊出したものの内容紹介だ。どちらも北園克衛の装幀、編集で、超モダンな表紙だが、むろん私は一冊も実物を見たことがない。 今回、私が紹介するのは別に新発見ではないが、創元社のホームページにはふさわしいものだろう。昨年末、天満(てんま・大阪市北区天満)の古本屋店頭で何げなく目に止まったのが、戦前の創元社のPR誌「創元」4冊だった。とたんに私はドキドキした。今までにも「創元」は折につけ見つけて5冊程持っているが、それらは昭和16年以後の号で判型はすべてA5判、表紙意匠も違うものだった。この4冊は超縦長の変形判だったからだ。 その中の一冊は昭和15年1月発行の創刊号ではないか! 残りも同年4、6、9月刊行である。(「創元」は3巻11号(昭和17年11月)まで29冊出たようだ) |
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「創元」昭和16年以後の号。A5判。 | 「創元」昭和15年の号。超縦長である。 |
大谷晃一氏の『ある出版人の肖像』によれば、創元社は昭和13年末に小林秀雄の提案で創元選書を刊行し始め、青山二郎、河上徹太郎、島木健作も顧問に加わった。東京支店編集長は岡村政司氏で、その頃30人の社員がいたという。 |
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この創刊号の後記を読むと、当時の熱気が伝わってくる。「創元」には青山二郎も編集に参画しており、表紙やカットすべてが彼のもので楽しめる。ブレーンの人脈からか、「創元」の執筆者も一流の人揃いである。
この4冊だけでも、河上、谷崎、井伏、朔太郎、林芙美子、中村光夫、中野重治、佐藤春夫などが書いている。河上徹太郎の「単行本の雑誌的性格」など、出版社のPR誌に格好の内容である。又同じ4号に渡辺一夫が別名の六隅許六とともにニ文、草しているのも愉快だ。 他社の良書の書評欄が巻末にあるのも今のPR誌と違って良心的である。私の好きな林芙美子も創刊号に「三つの著書」という随筆を寄せ、著者の題名の付け方の苦労など語っている。 「あれかこれかと色々苦心をして、十も二十も仮題をつけて見て、その中から、自分の姓名に調和するものを選ぶやうにしてゐます。芙美子といふ名が甘くて華やかですから、私は成るべく地味なものを心掛けて、その中で、作品の内容に即した気に入ったものを選び出すのですが‥‥」云々。 その頃、芙美子は創元社から同時に『心境と風格』『蜜蜂』『一人の生涯』を出しており、これらも相当な注意を払った題名と思うと感慨深いものがある。 ※ 後日、古い「日本古書通信」(昭和63)を繰っていたら、大屋幸世氏の「PR誌探索」という驚嘆すべき蒐集の成果が載っていた。戦前の出版社の珍しいPR誌を書影入りで数多く紹介し、その中で「創元」にも言及している。これによれば縦長型は昭和15年七号までで、昭和16年からA5判になったという。 なお、これは氏の単行本『書物周游』(朝日書林)にも後に収録されているが、残念ながら書影が全部省かれている。 |
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