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古書往来
49.四方田犬彦「先生とわたし」を読む
─ 由良君美先生の想い出 ─

ところで、この評論で私が改めて由良氏を身近に感じられたのは、氏の並はずれた古書蒐集家としての側面もいろいろ書かれているからである。
君美少年は小学校高学年頃から、大橋図書館や上野図書館に通いだし、同じ頃古本屋通いも始まった。『みみずく偏書記』中の「文庫とのつきあい」によると、小学四年の頃、新潮文庫で乱歩の『パノラマ島綺談』を手に入れ、それ以来、次々と乱歩のものを読み漁ったというから超早熟である。戦時下の中学生時代に、筆名ドン・ザッキーなる、詩人で高松堂の古本屋店主、都崎友雄と出会い、大きな影響を受けるともあった。
これは今回、私が読んだ「古書の買い方」(『みみずく偏書記』)の冒頭に「高校時代、私はある古書店に毎日のように入りびたり、店主の話に耳を傾け、勝手に店頭の書物を耽読し、安く売ってもらったりした。店主はアナーキストの詩人で相当の語学力と思想や文芸の知識を持っていた、…(中略)…想えば、学校に数倍する知識を、あの店頭でさずかっていたのだ。」と書かれていた人物にまさに当るだろう。たしか、青木正美氏の『古本屋奇人伝』にその詳しい評伝が書かれていたはずだ。
1945年、工場動員の給料で貯めたお金で、初めてイギリスの古版本を買う。戦後は研究対象のブレイク関係本を海外の古書店からも数多く蒐め、19世紀初頭に刊行のブレイクの貴重な初版本をロンドンのオークションで300万円(!)で競り落した体験をもつ程であった。

ここでは、私が再読した『書斎の王様』(1985年、岩波新書)に収録されている書下しの「縁・随縁 ─ 集書の不思議」からも一寸紹介しておこう。在りし日の書斎での由良氏のにこやかな笑顔の写真も載っている、楽しいエッセイだ。
それは「人間の世界に果して念力というものが存在するのかどうか ── わたしは知らない。ただ書痴にかんして言うと、どうもそれに近いものがあるように思われてならない。寝ても醒めてもある本を欲しい欲しいと思っていると、ある日、奇妙に、本の方からこっちにおいでおいでをしてくれるのだ。」と書き出されている。これは年季の入った古書好きなら、誰もがうなづける感慨であろう。
そして、古書との不思議な出会いの数例を披露している。若い頃、立原道造の詩集の自家版を揃えたくてたまらなくなり、その日は自由ヶ丘から目蒲線ぞいに古本屋めぐりをしたが、全く収穫がなかった。足を棒にしたまま、最後に大井の小さな店に入った矢先、「汚いアメリカの画報類の小山のなかから、あの稀な『萱草(わすれなぐさ)』(『〜に寄す』・筆者注)が目くばせするように半分目玉をだしてくれたのだった。」
ユングの言う共時性の体験もある。筑摩版の『柳宗悦全集』の英文学・書誌関係の校訂の仕事を、山ノ上ホテルで鑵詰になってやっていた時、食事がてら下町へぶらり散歩に出かけた。筑摩書房の近くの小さい古くさい書店で、何と、柳の旧蔵書、哲学者ジョサイア・ロイスの『不死の概念』にぶち当ったという。まぎれもない柳の鉛筆による読了日付と署名が見られたからだ。他にも、茅場町の古本屋で買ったイギリスの女流作家、ハンフリー・ウォード夫人の小説の中から、ルイス・キャロルが送ったクリスマスカードがハラリと落ちてきた話。ブレイク研究上の必須文献で稀書の『ブレイクの追随者たち』(1925)を長年、探し求めていたが、ある日、取引の長い、あるイギリスの古書店から手紙が舞い込み、その本が売立会に出たことを知らされ、翌朝早く国際電報を打って、ハラハラしながらも無事手に入れた話。ブレイクの追随者の一人の縁者による書込み、訂正がある貴重な本だったそうだ。
由良氏は探求本には「思い念じ辛抱強く探し待ちつづければ、縁さえあればきっと出会える」とも書いている。残念なことに、氏の死後、その厖大な蔵書の行方は四方田氏にも分らないという。いずれ東京の古本市にでも現れるのだろうか。

(追記) この原稿を書き進めているうちに、どうしても私の手がけた『言語文化の……』がほしくなり、またもや書友、津田氏にインターネットで検索をお願いした。すると、創元社版はヒットせず、学術文庫の方のみ出てきたとのこと。仕方ないが、私はそちらも今は手元にないので注文をお願いした。津田氏は同時に氏所蔵の『読書狂言綺語抄』(昭62、沖積舎)も気前よく贈呈して下さった。いつもながら感謝に絶えない。これには、90頁にわたる「ロビンフッドを尋ねて」などがあり、読むのが楽しみだ。
学術文庫の奥付を見ると、昭和61年5月の刊行となっている。由良氏の短い文庫版あとがきによれば、「いろは紅毛巡礼」の一文のみ増補したと記されている。他によく見ると、献辞がより詳しく「母〔由良清子、旧姓吉田〕の想い出に捧げる」となっていた。興味深いのは、寿岳文章氏が7頁にわたる解説を書いていることだ。それによると、寿岳氏と由良氏との由縁は、寿岳氏が戦前より『日本におけるエマスン書誌』の原稿を作成中に、古本屋からの情報からか、書信で慶応大在学中の由良氏からエマスン書誌の新たな情報の提供を受け、文通を重ねて以来の由。戦後、寿岳氏が大学をやめてからも、京都の龍谷大学で行われた日本英文学会大会に、由良氏が氏を基調講演者に招いたという。それに続く次の文章に私は釘付けになった。「これが契機の一つとなり、一出版社の企画で、ひろく文学や芸術を主題とする対談を同君とおこない、近く上梓を見ようとしているが、」とあったからだ。
私が前述した由良氏の研究室で見た録音テープとはこれのことだったのだろうか。そうとすれば、出版された可能性もある!(御存知の読者がおられたら、教えてほしい。)

それから、私は増補された「いろは紅毛巡礼」を一気に読んだ。
これは由良氏がボストン美術館へ出張の折、丁度、日本の人間国宝展に出品されていた芹沢_介の「いろは歌、型染め屏風」が気に入って何度も眺めていて、あるアメリカのお婆さんに話しかけられ、一寸説明すると興味をもたれ、それからラウンジで同様な鋭い好奇心をもつ(中には鈴木大拙の英訳本を読んだ人もいた)お爺さんお婆さんを前にして、日本語のアルファベット「いろは唄」について即席に、分りやすく順々とレクチャーしていく様子を楽しく描いたものだ。それが「色は匂へど 散りぬるを……(中略)……浅き夢見じ 酔ひもせず」という五・七の韻をふむ、しかも美的、思想的にも深い意味をもつ ─ 大乗仏教の思想を背後にもつ ─ 日本独自の言語遊戯であることを説くと、どっと驚きの歓声があがる……。
この体験談を読めば、全くのフィクションとはとても思われない。四方田氏は文中で、由良氏の英語力(会話力?)に若干の疑問をさしはさんでいるが、アメリカ人を前にこんな複雑な説明を展開できるのは、並大抵の語学力ではない。この新篇を読めただけでも、今回の大収穫であった。

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