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49.四方田犬彦「先生とわたし」を読む ─ 由良君美先生の想い出 ─ |
さて、私がめったに読まない文芸雑誌の評論を一気に読み通したのには、充分な理由がある。というのは、これは文中にも何度か引用されている由良氏の二作目の著作、『言語文化のフロンティア』を手がけたのは、何を隠そう、若き日の私だからだ。 |
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「言語文化のフロンティア」(創元社)表紙 |
私は昭和42年、大阪外語大英語科を卒業してある都市銀行に就職したが、銀行の仕事が嫌でたまらず、出版の仕事をやりたい気持ちがつのり、一年間であっさり銀行を止めた。その半年後、運よく創元社の入社試験に通り、希望した編集部に入ることができた。ただ、社としては私の大学の英語科の先輩に当る編集者の人がそのしばらく後に止めて哲学専攻の大学院へ再入学予定なのを見込み、その後任と目して採用したらしい。当然、英語関係やカーネギーなどの翻訳ビジネス書の分野を私が受け継ぐことになった。しかし私は元々語学はにがてで、大学もビリで辛うじて卒業した位なので、与えられた仕事はいやいや消極的にこなしていた。 |
それよりも、せっかく出版社に入ったからには、自分がまず読んで面白く、好きな著者、それも全国に通用できる一流の著者の本を何とか出版できないものかと、日夜ない知恵を絞ってあれこれ企画を考え、試行錯誤していた。むろん、私の読書や勉強は底が浅いものだったが、知的好奇心だけは広く旺盛だったように思う。初めの頃は当時の新しい人文科学の動向に刺激され、例えば佐藤信夫氏の「記号学入門」や小笠原恭子さんの「歌舞伎の誕生」、服部幸雄氏の「間の美学」といった企画を編集会議に出したが、前二者はボツ、後者は採用されたものの、数年待っても原稿は出来ず、結局流れてしまった。 |
そんな悪戦苦闘の続く入社後、四、五年目だったろうか、私は由良氏があちこちの雑誌に発表されていたエッセイを読んで大いに魅惑され、氏にたしか『言語』に載った「ルビの美学」などを中心にしたエッセイ集を一冊出してもらえないか、という主旨の手紙を出した。しばらくして返事の手紙が届き、見ると、やんわり断られ、ついでに、編集者ならもっと勉強してエッセイ集の目次位示してほしい、といったお叱りの言もいただいたように記憶している。私は、編集者というのは、そこまでしないといけないのか、と恐れをなし、なかなか厳しい先生だなぁと正直思い、恐縮した返事を出したものの、どんなことを書いたのか、もはや覚えていない。その後もあきらめずに時々手紙を出したのかも今では忘れてしまった。ところが大部たってから、突然由良氏から原稿のコピーとともに、こういったもので一冊、本を刊行できないかという御依頼の便が届いたので、びっくりした。それで早速、企画会議にかけたところ、今度はすんなり通ったように思う。テーマからして、私の担当分野に近いものだし、何しろ東大の先生で、雑誌にもいろいろ書き、すでに一冊『椿説泰西浪漫派文学談義』(1972年、青土社)も出しておられたので、内容は信頼され、売行きも初版位は大丈夫と、幹部の人たちも判断したのだったか。あるいは、駆け出しのボツ企画の多い編集者でも、そこまで熱心に著者に肩入れして説明する企画だから、一冊位は冒険を許してやろうという、有難い温情心からだろうか。いずれにしても会議に通ってホッとし、早速はりきって仕事を始め、企画決定直後か、初校が出た後だったかに、打合せのため、上京して駒場の研究室を初めて訪れたことがある。もう細部は全くぼやけているが、この評論にも出てくるように、パイプを優雅にくゆらせ、その温厚なお顔をほころばせながら、会って下さった。その折、戦前の創元選書のことなども話題に登った気がする。そういえば、四方田氏の文で、由良氏の父、哲次氏は横光利一の親友だったと知ったので、今から想うと、横光が創元社から名作『時計』や『機械』を出したことも由良氏の頭の中で少しは連想されたのかもしれない。そうだ、その折、研究室の壁の天井近い作り棚に、テープがずらりと並んでおり、それがゼミの講義(?)や寿岳文章氏との長時間にわたる対談(おそらく、ブレイクについての話が中心であろう)の記録であり、いずれこれらも活字化したいのだが、とおっしゃられたこともうっすら覚えている。(これらは一体どうなったのだろう。本になったという話は聞かないが……)帰り途、東大構内を歩きながら、編集者になったからこそ、東大の偉い先生にもこうして会えたんだ、などと無邪気な幸福感を味わった、ような気もする。本造りの過程で、装幀にも注文を付けられ、上製の表紙クロスはバックラムで、函には先生愛蔵のギリシアの画家、ファシアノスの「月よりの使者」の版画を使ってほしいと言われた。まだ造本の経験も浅いので、先生の期待に応えられるかどうか心配だったが、製作部のヴェテラン、村山清氏に教えてもらいつつ、何とか先生のお気に召す本が出来上ったのだった。 今回、30数年ぶりで図書館から借りてきた本書を改めてのぞき、感慨深いものがあった。但し、函は取られていて、書影は表紙のみしか紹介できないのは残念だ。あとがきを再読してみると、冒頭に、本書出版までのいきさつを先生が書いておられる。私への言及はまことに過大評価で、当時も相当気恥ずかしい思いをしたものだったが、私もそろそろ過去の想い出を語ってもいい歳頃となったので、その一つの記念としてここに引用させてもらうのをお許し願いたい。 |
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本書は確か、初版四千部刷り、ほぼ初版分は売り切れたが、けっこう時間がかかり、増刷するまでに至らなかった。その後、11年経って講談社学術文庫からお声がかかり、エッセイを一篇追加して文庫化されたが、現在、調べると、それも品切れになっているので、古本でしか手に入らない。今回の四方田氏の評論で、由良氏に再び脚光が当てられたのだから、どこかで再度、復刊してくれないだろうか。 |
「言語文化のフロンティア」(講談社学術文庫)カバー |
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