41.「金言三題」

仏も昔は凡夫(ぼんぷ)なり 我等も終(つい)には仏なり
いづれも仏性(ぶっしょう)具せる身を
へだつるのみこそかなしけれ……
(『平家物語』巻第一 祇王)

時という字を考えてみろ
時は日に日に寺に近づくと書くんだ
どんな金持ちでもいつかは
寺の坊主の世話になる
(『静かなるドン』第95巻)

子ども叱るな来た道じゃ
年寄り笑うな行く道じゃ
来た道悔やむな戻れぬ道じゃ
(出典不詳)

だんだん書くことが抹香(まっこう)臭くなってきた。それでもこうした金言がブームになっているのは、多分ツイッターで140字という制限のもと、皆がお互い自分が見つけた金言を引用し合っているからではないか。その意味では、古くて新しい現象ではある。

上にあげた三題は、どれも身につまされた言葉で、一つ一つでエッセイを書くこともできたが(実際書きかけてはいたのだが)、結局まとめて三つとも掲げてしまった。焦っているのかしら……いやいや、若い女性読者が多いというこの欄で、年寄りの繰り言みたいなエッセイを三つも並べる勇気がなかっただけである。

  金言は金言自体がイメージを膨らませてくれるので、解説は必要ないだろう。なぜイメージが膨らむかというと、その背後に長い長い人生や物語が潜んでいるからである。我々はクライエントさんからそういった言葉を聞くことが多い。極端なことを言えば、面接室で語られる言葉は一言一言がすべて金言である。「これまでは、失敗だらけでした」と語るその背後に、その人の何十年の失敗の歴史があるからである。しかし同時に、「これまで」ではなく「これまで」ということによって、そこから未来に向けた希望と決意を読みとることもできる。じっくり聞いて、じっくり考えて、じんわり味わう……金言はそんなふうに扱われるのがふさわしい。

その意味では、反射的な存在証明を得意とするツイッターなんかで、金言が流布するのは間違いだとも思う。ましてや、大事な金言を三題噺みたいに並べ立てるなんてね……反省。