さて、三たび豊田の小説に戻ろう。
「「アクション」は創刊二年目をむかへて、益々内容を豊富にし、大総合雑誌の風格を具へ始めてゐた。しかし、経営主であり、編輯上の主催者であるT氏は、既に資金難に陥入つて、湘南に有する五千坪の別荘地を売りにかかつてゐた。」そうして、鳥羽が夏の休暇を終え、「三周年記念号のために奮闘する気で「アクション」社に出社すると、突然、T氏から廃刊を宣言された。」と言う。鳥羽はT氏のこれまでの金融上の苦闘を身近に見知っているだけに、「うめくやうなその言葉をきくと、もう何も言へず、呆然とした。」一方、野口の前述の本には、中二階の社長室から編集室へ戻ってきた豊田が「閉社のことを私に告げるなり両掌で顔を覆って子供のようにおいおい泣きはじめた」と印している。『行動』編集に、それほど思い入れが強かったのだろう。書いていないが、野口の方はどう受け止めていたのだろうか。そういえば、雑誌廃刊の折の編集長の感慨はよく「編集後記」に見られる。近代日本の沢山の雑誌の廃刊時の編集長の受けとめ方を表する文章を集めてみたら面白いかもしれない。
一方、田辺茂一も、自分の小説集や随筆集の中で、戦前の紀伊国屋書店や出版活動のこともいろいろ回想しており、例えば『茂一ひとり歩き』(昭51)でも、書店開店当時のことや『行動』刊行の頃を随筆に書いているようだ。ようだ、とは頼りない話だが、私が以前持っていて今は手離してしまった本がこの本だったのか、どうもボケてしまって憶い出せないからだ。口絵写真には、戦後しばらく後の書店の珍しい内部風景なども載っている本だったが・・・。(私の古本蒐集も、肝心な時に役に立たないのだから、情けない。)ただ、最近手に入れた田辺の風俗小説集『正体見たり』(1972年、新潮社)中の「ハーモニカ横丁」には、書店の略史が語られ、そこで、田辺は昭和3年、『文芸都市』という同人雑誌、『アルト』という美術雑誌を出したが、赤字つづきでどちらも二年で廃刊、昭和8年に『行動』を発刊したが、「これも二年で終熄、赤字十七万円也であった。」と記録している。しかし、田辺の雑誌への情熱は止みがたく、戦後も17年にわたって『風景』を出し続けた。
なお、石神井書林主、内堀弘氏が、紀伊国屋の季刊PR誌『i FEEL』に「予感の本棚 ── 戦前の紀伊国屋書店」という興味深いエッセイを4回連載されたが、この雑誌も休刊になったので、その続きをどこかへ載せられることを期待している。
また、紀伊国屋発行のモダニズム雑誌に詳しい曽根博義氏が「紀伊国屋書店とモダニズムの時代」といったテーマでいずれ本にまとめて下さるのを私は期待している。 |