大坂図では初めての網羅的・体系的研究成果近世刊行地図で大きな比重を占める京都・江戸・大坂の三都市図のうち、
大判型で近世大坂図のダイナミズムを体感大きいものでは長辺が180cmを超える大坂図のボリュームを伝え、なおかつ微細な記載内容を確認できるよう、見開きA2サイズの大判型を採用。大坂図の大判画像が、修正を施さず、アーカイブ用原色写真でまとめて収録されるのは本書が初となる。この大胆な試みは、現在する刊行大坂図の最新・最大の調査成果といっても過言ではなく、研究者間の情報共有を助け、ひいては近世・近代の大坂研究や地図史研究でなされる実証研究にも、大いに寄与するものとなっている。
同系統図の改版から読み取る、都市の変遷刊行年に約60年の開きがある[貞享図1-1」と[貞享図9-2]を比較すると、後者には南側の郊外に住吉大明神が新たに描かれ、
「論文×図解×複数の研究者」による多角的アプローチ地図のような非文字資料は、見る者によって異なる解釈が生まれやすい。本書では、執筆者同士が可能な限り原図を囲んで議論を重ね、新たな発見の再検証、より妥当な解釈の可能性を探った。
「内容」だけにとどまらない古地図の魅力近年の古地図研究では、折り方や判型、顔料や染料の分析など、「内容」だけではなく、「形式」や「素材」にも注目が集まっている。
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川村 博忠東亜大学客員教授都市形成の歴史が読み取れる――天保摂津国絵図を見ると大坂町は西成郡にあって、北西を南流する淀川とその分流の木津川に抱かれ、東南は東横堀と道頓堀に画されて方形を呈している。町中央を南北に通ずる西横堀からは8筋の水路が木津川へ下り、合間には「大坂町」とのみ記している。東横堀には名称を記す7つの橋が架かっている。この堀の西側に平行して引かれる太い朱筋は紀州街道であろう。国絵図ではこの程度の描写でしかなく、市街の詳細を知ることはできない。
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杉本 史子東京大学史科編纂所教授地図史に限定されない、待望の書――土地空間を舞台にしたさまざまな歴史事象は、その当時の人々の空間認識を抜きにして理解することはできない。本書の刊行は、狭い意味の地図史に限定されるものではなく、都市ネットワークに立脚する近世日本の、そして、出版を媒介としたこの時代の文化を考える上でも重要な意味をもっている。
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薮田 貫関西大学名誉教授・兵庫県立歴史博物館館長「武家の町」大坂を知る手がかりにも――A3サイズの地図に、上空からみた江戸時代の大坂が広がっている。北が上になったものも、東が上になったものもあるが、どちらにも○や△の合印が付いた町々が、船場を中心に東西に、あるいは南北に櫛比している。いうまでもなく「町人の街」大坂の姿である。
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本書の構成・主な収録図 ※( )内は執筆者名・肩書 |
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<論文篇>はじめに(上杉和央・京都府立大学准教授)
[各論]
<図録篇>[図版解説](小野田、上杉、島本、吉村の分担執筆) (*収録図は一部変更になる場合があります)
[コラム]
[刊行大坂図書誌データ](上杉、島本) |
監修者のことば大阪大学名誉教授 脇田 修 大阪は、奈良・京都などの都に近い摂津国にあり、摂津・河内・和泉三カ国の広大な平野を背景にしている。そしてこの大阪は、東には上町台地があり、西は瀬戸内海にかけて開けた土地となっている。そして後には大和川は付け替えられて、堺付近へ流れるようになっているものの、当初は淀川・大和川という畿内二大河川の河口でもあり、瀬戸内海を控えて、各地に水路がつながっている絶好の地勢であった。そのため畿内の「廉目能所」といわれた。 私は大阪市北区に生まれ、曾根崎幼稚園・小学校と過ごし、お初天神ではゴムまつりの野球をやった思い出をもっている。もっとも戦時中には心中したお初の名は禁句で、露天神と呼ばないと教師に叱られたが、この曾根崎心中の道行も地図で辿ったことがある。こうした楽しみも地図帳から読み取れるが、さらにさまざまな形でこれを利用して頂きたい。 ★本書における被差別身分に関する事象の扱いについて |