30.「おくりびと」

脹想(ちょうそう)……屍の膨張を観想
想(せいおそう)……屍の変色を観想
壊想(えそう)……屍の破壊を観想
血塗想(けつずそう)……屍の血肉が地を染めるのを観想
膿爛想(のうらんそう)……屍が膿爛し腐敗するのを観想
想(たんそう)……鳥獣が屍をついばむのを観想
散想(さんそう)……筋骨、手足がバラバラになるのを観想
骨想(こつそう)……白骨だけになるのを観想
焼想(しょうそう)……白骨が火に焼かれて灰、土に帰すのを観想

……九相(くそう)詩絵巻より


 かねてよりある一群の人たちの文章に、小賢しい論説や時評とは一線を画す、どこか一本筋が通った潔さを感じるのは何故だろう……と思っていて、気づいたことがある。それは、彼らがどこかで「死」と向き合ってきた人たちだ、ということである。
 何十年も死体と向き合ってきた解剖学者、死に逝く患者の看取りをする医者や看護師、九相詩絵巻を前に観想する僧侶……そういえば遺体に化粧を施す納棺師の潔さもまた、映画で脚光を浴びた。古代ローマ時代には「今を楽しめ」という意味で唱えられたというメメント・モリ(死を忘れるな)は、キリスト教世界では現世の奢侈を戒める全く逆の意味で用いられるようになり、宗教が背後に退いた今の日本では、ミスチルの歌にかろうじてその名残を残している。それでも繰り返しこの言葉が、忘れた頃に引き合いに出されるのは、それが逆に忘れられやすいからではないか? 普段は見ないことにして、気づかないことにして日常を送っているから、折にふれて不意に目に飛び込んでくる「死」に狼狽してしまうのではないか。
臨床心理士の「臨床」が「死の床」であることを教えてくれたのは、自ら臨床……生と死の間の床を生き抜いた故河合隼雄先生であった。「あんな、だから臨床的見方というのは、死の方から生を見ることやで」。
どうせ死ぬ。やがて死ぬ。絶対死ぬ。日常的に「死」を目の当たりにし続けるということは、それ自体が修行である。解剖学者も、医師も看護師も、僧侶も納棺師も、そうした修行を修めるから、自ずから「死から生を見る臨床的視点」というものが身につくのだろう。だからこそ、感動を与え、一本筋の通った潔さを感じさせるのだろう。
翻って我が身を考えると、魂の生死に付き添う臨床心理士もまた、そうした修行をしているはずである。それなのに潔い文章が書けないのは何故だろう……やっぱり、修行が足らないからかな。日々是精進精進……。