23.「正直馬鹿」
散髪屋さんでの会話。
「いやあ、こないだなあ、初詣に行ったとき、寒い中で若いもんが『寄付お願いしまぁ〜す』って声張り上げとってなあ、偉いもんやなあと思うたわ」
「それ、何の寄付ですぅ?」
「いや、何やよう分からんけど、『恵まれない子に……』何やらゆうてたわ」
「それ、ひょっとしたらアルバイト違います? こないだ、テレビでそんなんで寄付金懐に入れる仕事、特集してましたで」
「えっ? そうなんかいな? ワシ、孫にお金持たして寄付させたがな……えらい世の中になったもんやなぁ……」
「ホンマ、正直もんは馬鹿を見る時代ですもん。気ぃつけなあきませんでぇ」
かつて善良であることは、揶揄(やゆ)の対象であった。愚かなほどに正直であること、頑ななまでに規則や法律や人の道に従順なこと……それは、強大な権力を持つ独裁者か、自らの出自を頼む高徳の人か、失うものが何もない無辜(むこ)の人たちにのみ許された態度であり、ありようであった。
しかし今やそれがリスクヘッジの方略となりつつある。コンプライアンスって何だと思うけれど、要するに会社や企業は馬鹿正直でないと、皆から論(あげつら)われる危険(リスク)が増すよ、だから危険を避けるためには、いつも法令順守して、規則や決まりや社会の要求に常に気を配って、馬鹿正直でいましょうね、ということなのだ。
別にそうした流れに棹差すつもりはない。確かにそれは素晴らしい態度であり、理想的な姿勢だ。でも僕は、そういった言葉を流行らせているのが、核を持つ超大国であったり、世界のIT業界を牛耳っている巨大企業であったり、要するに強大な権力と経済力を持った独裁者たちであることに、いささか胡散臭さを感じてしまうのだ。
皆、馬鹿正直でいることがこれからの世の中を渡っていく上で必要なことなんだよ…って、「お前に言われたかねえよ!」そう思ってしまうのだ。企業の金儲けに義憤の炎を燃やして内部告発するのは、失うものがほとんどない若者か、全てを失ってしまった人である。そうやって中途半端な企業は、巨大資本の垂れ流すイデオロギーに乗せられ踊らされて、馬鹿正直が単なる正直になり、挙句正直馬鹿になって巨大資本に呑み込まれていくのではないか……そうしてそれが、もともと描かれていたシナリオだったとしたら……。
床屋の会話は、日本沈没の徴候などではないと、いったい誰が保証してくれるのだろう……。