7.びよき讃歌
びよきでやすむ。
喉が痛い。
背中が痛い。
頭がボーとして、咳が出る……
びよきでやすむ。
あれこれ心配事を思い巡らすこと、
やらなきゃならないことを数え上げること、
何もかもうっちゃって……
びよきでやすむ。
びよきでさぼる。
こんなに素敵なことはない。
永らく忘れていたのだが、病気で寝込んでいる時、目の前に白いシーツが延々と広がっている情景を見て、小学校の教科書に載っていた吉村昭の小説を思い出した。病気で寝込んでいた少年が久々に外に出て、鉄棒にぶら下がったが身動きできなかった、という話だったように記憶している(※注)。当時私は、その淡々とした文体にひたすら憬れ、彼の真骨頂である記録文学には見向きもせずに、「少女架刑」や「透明標本」など、死の匂いのする短編ばかりを読み漁(あさ)っていた。
若い頃には想像もつかなかったことだが、グダグダのチューネンをやっていても、思春期の死の誘いを生々しく身近に感じることがある。齢を重ねるとはよく言ったもので、要するにそれは変容するものではなくて、新たな狭雑物が重なっていくだけなのだ。脱ぎ散らかした服や座布団の下に、色の変わった大学ノオトを見つけ、そこに鉛筆書きで、清冽(せいれつ)な感性で綴られたかつての自分を見つける。文字内容は変わらないし、その時の想いも生のまま湧き起こる。違うのは、それ以外の現実感覚や、日常への慮り、より幅広い人々への配慮、駆け引き、恨み、コンプレックス、欲望、諦め……要するに脱ぎ散らした服や座布団なども同時に視野に入ってしまうということだ。
「分析」とは、そういった諸々を掻(か)き分け、自らの起源(オリジン)にある感性に出会うことなのだろうと勝手に納得している。少なくとも僕にとって、「分析」とはそういうものだった。
ちなみにこのエッセイを書くために吉村昭の作品を検索していて、彼が2006年7月に逝去されたことを知った。謹んで御冥福を祈りたい。
- 注
- この記憶、裏が取れなかった。同世代の同じ教科書を使った方々でもし御記憶があれば、タイトルなど私宛ご連絡下さい。もう一度読みたい小説です。